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1969年生まれの真紀さんは、松田家の長女として群馬県桐生市で生を受けた。5つ下の長男と8つ下の次男・直樹という2人の弟が生まれ、しっかり者の姉として成長していった。
長男の背中を追うように地元の天沼小学校時代からサッカーを始めた松田は、相生中学校時代に全国大会で活躍。高校サッカーの名門・前橋育英高校に進み、U─17日本代表の一員として世界大会に出る飛躍を遂げる。
そんな弟を、真紀さんは陰から応援するだけだった。
「直樹が中学生のとき、私は国学院大学の学生で東京暮らしをしていたので、お母さんたちから“全国大会に出た”“日本代表に選ばれたよ”という話を聞くばかりでした。私はどれだけすごいことなのかまったくわからず、“ケガをしないでほしい”と願うのが精いっぱいでした。大学卒業後は専門学校の事務員や営業の仕事をやっていましたけど、バブル時代でしたし、あまり地に足がついていない若者だったのかなと思います」
と、彼女は苦笑する。
20代後半になって地元に戻り、病院の医療事務の仕事に就いたが、相変わらずサッカーとの関わりは薄かった。そのころ、すでに弟の直樹は横浜マリノス(当時)に入団。U─23日本代表として'96年アトランタ五輪でブラジルを撃破する「マイアミの奇跡」の立役者となり、'00年には日本代表デビューを果たすなど、順調にサッカー選手としての道を歩んでいた。
現役時代に松田と対戦したことのある松本山雅監督・反町康治が「日本最高のDFは松田直樹と中澤佑二(横浜)の2人。もう少し時代が早ければ、松田は海外でも十分活躍できた。それだけの身体能力の高さと闘争心を持っていた」と太鼓判を押すほど、当時の彼は頭抜けた存在感を誇っていた。
真紀さんは言う。
「(フィリップ・)トルシエ監督の日本代表に入って'02年日韓ワールドカップに出たときには、私も横浜のロシア戦、大阪のチュニジア戦、仙台のトルコ戦を観戦しました。あれだけの華やかな舞台で自分の弟が戦っているなんて本当にうれしかったし、すごいことだなと感じました。'03年と'04年にマリノスがJリーグで連続優勝したころも何度かスタジアムに行きました。
でも、いちばん印象的だったのは、マリノス最後の試合になった'10年12月の大宮アルディージャ戦。直樹が“マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高なところを見せたいので、これからも続けさせてください”とスピーチしたときには、感極まりました。私たち家族は、直樹の戦っている姿にいつも励まされてきたんです」
(文中敬称略)
取材・文/元川悦子 撮影/高梨俊浩
※「人間ドキュメント・松田真紀さん」は5回に分けて掲載します。前後の記事は関連記事にあります。