中学生。14歳で銀座の水商売の道へ

 1975年、北海道北見市で生まれた。3つ上の姉と、双子の妹の3人姉妹で育った。

「子どものときから、大人だった」という久田は、両親のことも、「もともと、くっついちゃいけない2人が結婚したわけ」と冷静に振り返る。

 父親は月に1~2度しか帰宅せず、待つ身の母親は絶えずイライラ。怒りの矛先を子どもたちにぶつけた。

「私や姉もたたかれたけど、妹は特にひどかった。2度も複雑骨折してるもん。今だったら虐待よね」

 小学校に入学したころ、両親の離婚が決まった。妹は父親に引き取られ、姉と久田は母親とともに、母親の実家がある、東京・足立区に移り住んだ。

新居はボロボロの小さな長屋でね。関東大震災でも壊れなかったなんて自慢してたけど、障子は穴だらけ。台所にはネズミの死骸が転がってて、ひどいところに来たとガッカリしたものよ」

 新しい小学校に通い始めても、慣れたころには再び引っ越し。転校を繰り返した。

「母は“取り壊しになるのよ”って言い訳してたけど、何年かたって見に行くと、前の家は相変わらず残ってた。きっと家賃が払えなくて追い出されたのね

 母親は働かず、生活保護を受けながら、パチンコ店に入り浸っていた。

「クラスの連絡網に、うちだけ自宅の電話番号がなくてね。あれが致命的だったな」

 貧しさが知れると、いじめっ子に、「貧乏、貧乏」と石を投げられた。久田は、負けるもんかとやり返した。身を守る術を、ほかに知らなかったからだ。

 中学入学後は、別の小学校から来た、いかにも悪そうな少女と意気投合。同じ匂いのする仲間数人で『チーム』を作った。

「本当は、中学に入ったらいっぱい勉強して、将来は、母に楽をさせたいと考えてたの。だって、うちのお母さん、パチンコ店で人の玉を盗んで警察に捕まっちゃうような人でしょ。私がしっかりするしかないじゃない。でも、その子との出会いが運の尽き(笑)。そこから道がずれたのよ」

 久田が通っていた足立区立第十六中学は、「足立区の学習院」と言われるほど、平和でのどかな校風だった。それが、久田たち不良グループが幅をきかせるようになってから、校内の雰囲気は一変した。

学校の前の団地に集まって、タバコを吸ったり、気に食わない他校の生徒を殴りに行ったり。授業をさぼって、“原宿で悪さでもするか”って出かけては、何度も捕まってね。お巡りさんと顔なじみになるほどよ。おいおい、こんな話をして大丈夫?(笑)」

 久田は悪さの限りを語ったが、中学時代の友人・佐伯進さん(仮名・42)の話からは、別の一面が垣間見える。

「確かに真紀はワルだったけど、一本筋が通ってた。自分なりのルールがあったんだろうね。弱い者いじめなんか絶対しなかった。でも権力には、とことん立ち向かう。気の合わない教師と取っ組み合いの大喧嘩をしたことも、1度や2度じゃない」

 中学2年で、母親に家を出されてからは、友人宅を泊まり歩き、求人誌を見て、銀座のクラブホステスになった。

「化粧して19歳ってウソついても、中身は14歳じゃない。大人の話は理解不能よ。だから、黙ってにこにこしてたら、“おしとやか”なんて、けっこう人気になってね」

 時代はバブルを迎え、羽振りのいい客に、高価なプレゼントももらった。たまに学校に行くと、同級生が幼く見えた。悪さをすれば、生活指導の先生に竹刀片手に追いかけられ、最後は「寝てろ」と、さじを投げられた。

 中学の卒業式は出られなかった。PTAが久田たち不良の出席を拒否したからだ。

「別の日に校長室で卒業証書を受け取ったけど、感動なんてあるはずない。高校に行く気もなかったから、卒業後は、当然のように、銀座の仕事にのめりこんでいったの