最後の誓い。お互いベストを尽くそう
ある日、そんな和泉さんに初めて厳しい言葉をかけた人がいた。病院で仲よくなった同世代の入院仲間のひとり、西川隆智さんだ。
「大学も行って、脚も治して、両方うまくいこうなんてなに甘いこと言うとんねん! 大阪でそういうやつなんていうか知ってるか? どアホや!」
みんなが「大丈夫だよ」と励ましてくれるなか、西川さんは和泉さんのことを思い、その性格もわかったうえで、あえて厳しく言っていることが伝わってきた。うれしかった。
「初対面のときは絶対に友達になれないと思っていたんです。赤いロングヘアでアクセサリーをジャラジャラつけた、ヘビメタバンドのドラマーでした」
西川さんは白血病の一種を患っていた。奈良県出身でコテコテの関西弁。人懐こく、誰にでも気さくに話しかけ、みんなを笑わせていた。だからこそ、和泉さんの気持ちが手に取るようにわかったのかもしれない。幼いころからみんなが笑顔でいられるように、心配をかけないようにとニコニコしている和泉さんを見透かすようにこう言ったのだ。
「本当はつらいのに、無理して笑うなよ」
2人はお互い、心からわかり合える同志だった。和泉さんが唯一、弱音を吐き、本音を話せる友人だった。
あるとき、西川さんは骨髄移植を受けることになり、大阪に転院した。90%の確率で成功する手術。「高知に友達がたくさんできたから、高知に戻ってこようかな」と話す西川さんに、「戻ってこいよ」とみんなで笑って見送った。
しかし、「手術は成功」と連絡があった数日後、院内感染で容体が急変し、帰らぬ人となった。
「何日も何日も泣き続けました。今よりもっと負けず嫌いで意地っ張りで、西川くんにどれだけ救われたかを伝えることもできていませんでした。“ありがとう”と伝えられなかった後悔は今も残っています。西川くんの分まで生きよう。後悔しない生き方をしよう。彼がくれた最後の言葉“お互いベストを尽くそうぜ”を守り続けようと心に誓い、今の私がいます」
思い立ったら走り出す。力尽きるまで走り続ける。感謝の気持ちはすぐに伝える。
和泉さんの核は、このとき揺るぎのないものとなった。
自分にしかできないことがある
脚を治療して短大に復学し大学にも転学。2年の休学を含めると大学卒業までに6年を要した。大学で抽象画や和紙を使ったオブジェなどさまざまな作品に意欲的に取り組み、なかでも和紙の作品は福岡で認められ、声をかけてくれるところも出てきていた。卒業後、福岡で美術に関する仕事をするつもりだった。
「卒業前の1か月ほど、湯船に入ると、脚の脛(すね)あたりがペコペコ動く。親に言うと連れ戻されると思い、卒業するまで装具をつけてだましだまし過ごしました」
卒業式を終え、ようやく故郷・高知の空港に降り立った。迎えに来た母に事情を話すとその足で病院へ。片方が骨折していて緊急入院となった。
脚はもう限界だった。全治1か月半と言われた骨折だったが、原因不明で9か月間歩けなかった。
バリアだらけの4階建ての実家は車イスでは動けない。這うようにして生活した。いつ歩けるようになるか先が見えない。目指していた夢は崩れ、ゼロになった。
「この先どうやって生きていこう。歩けないままなのか」
埼玉の「国立障害者リハビリテーションセンター」ならインテリアデザイン科で建築やパースを学ぶことができると知り、抜け殻のようになったまま、埼玉へ行く決意をした。通い始めるころには、歩けるまでに回復していた。
埼玉での1年で、和泉さんは「私、障害者なんだ」と初めて思い知らされたという。
「さまざまな障害がある人が学んでいて、最初は戸惑いました。それまでに障害のある人と触れ合ったことも、自分自身が障害があると思ったこともありませんでしたから。でもそこで、友達もたくさんできました」
高知に帰って設計事務所に就職すると、新たな興味が湧いてきた。バリアフリーの設計プランだ。そして、偶然入った本屋で「福祉住環境コーディネーター」検定試験のテキストを見つけた。医療、福祉、建築の幅広い知識を身につけ、クライアントに適切な住宅改修プランを提案、アドバイスするための能力検定。「これだ!」と思った。
「障害のある当事者、そしてそのご家族が質の高い生活をするための力になれる。建築の知識や自分の経験が生かせる。自分にしかできないことがここにある。『使う人の身体に合わせて環境を整える』という視点に衝撃を受けたんです」