そして祖国へ。44年ぶりの帰還

 それでも1度くらい帰国して、家族や友人に会いに帰りたいとは思わなかったのだろうか。いくら遠いとはいえ、24時間もあれば着くのだから。

お坊さんになった瞬間から自分の母も人の母も平等の存在になる。だからインドの坊さんは離縁するか、一生、結婚しない誓いを立てる。出家というのは、家を出ること。日本男児たるもの、目の前に弱っている人がいるのに、どうして帰れようか。礼儀に忠義……私の心にはいつも武士道がある」

 そんな義理人情に厚い佐々井が、帰国を決意したのは2009年。実に44年ぶりである。インドでの活動が一段落したタイミングで、日本の支援者や恩人たちが生きている間にお礼が言いたかったのだ。インドよりも豊かで平等な日本へ。ところが、久しぶりに祖国の地を踏んだ佐々井を待っていたのは、「人の匂いがしない」現代日本の空虚感であった。

「インドの子と比べ、日本の子は覇気がない。大人も顔が沈んでいる。自殺が年間3万人と聞いて驚いたが、いったい祖国はどうなってしまったのか?」

 1度きりの帰国のつもりだったが、東日本大震災が起きると、被災地に飛び、お経をあげ人々を勇気づけた。以来、定期的に帰国するようになり、各地で講演会が開催されると、若い人たちもたくさん詰めかけるようになった。

在日インド人で組織するアンベードカル博士国際教育協会日本支部で、佐々井さんの歓迎会が開かれた。「みんなの元気な様子に安心しました」と佐々井さん 撮影/渡邉智弘
在日インド人で組織するアンベードカル博士国際教育協会日本支部で、佐々井さんの歓迎会が開かれた。「みんなの元気な様子に安心しました」と佐々井さん 撮影/渡邉智弘
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「昔は“駆け込み寺”という言葉どおり、お寺は悩める人の相談所であった。実際、私も寺に助けられ、僧となったんだ。どこかに今も親身になって世話をしてくれる寺もあるだろう。アンベードカル博士のような偉人の伝記をたくさん読んでほしい。何が正しいか、自分の使命とは何か。苦しい時、本は人生の助けになるだろう」

まだまだ死ぬことができん

 御年81歳。世間では静かに余生を過ごす年だが、佐々井にそんな老後は訪れそうにない。

「休んでいる暇はないのだが、3年前に1度、意識不明の重体となってな。病院のまわりは何千人もの市民が取り囲んで警察が出る騒ぎだ。ところが、ナグプールの病院にいるはずが、私はなぜか意識の中ではヒマラヤの病院にいたんだ。担当の看護師は顔を見せてくれないが、後ろ姿から美人とわかる。それでこんなことを言うんだ。

『あなたは、今まで頑張ったから極楽に行けます』

『俺は死ぬのか? まだやらねばならないことが3つもあるんだ!』

『生き返ると何倍も苦しいことが起きるから、もう死んだほうが楽でしょう』

『ダメだ、シャバに戻せ!』

 すると、スーッと私の身体の中に入ってきた。看護師の格好をしていたが、観音様だったんだな。大変なのは取り囲んでいた市民だ。私の呼吸が止まった時、“ササイが死んだー!”と大泣きしていたら、“生き返ったー!”“えー!?”と。わっはっは! それから州知事の命で救急ヘリが迎えにきて、ボンベイに移送されたんだが……」

 龍樹のお告げといい、看護師の観音様といい、常人にはすぐには理解しがたい出来事であるが、佐々井はいたって真顔である。ところで、そのまだ死ねない3つの理由を聞いてみた。

 ひとつはアンベードカル博士の平等の精神をもっと世に伝えねばならない。2つ目は悲願であるヒンドゥーからのブッダガヤーの大菩提寺奪還だ。早ければ今年、最高裁判で争うことになる。最後に、龍樹が告げた「南天鉄塔」らしき遺跡が本当に出土したので、その発掘を進めたいのだという。

「だから、夢ではないと言っただろう。ナグプールから約40キロ離れたマンセルという地区に龍樹連峰と呼ばれる山々があることがわかり、その土地の一部を買い許可を取って10年かけて発掘した。そしたら首のない仏像や寺、そして鉄塔らしき遺跡も発見したんだ。しかし、まだ塔の内側は発掘できていない。黄金の像がでるか、経典がでるかまだわからん。発掘許可を得ようと、日本からも偉い考古学者さんらが来てくれて、一緒に政府の考古学調査研究所に交渉したんだが、上位カーストのバラモンのやつらがね、仏教の遺跡であると証明されたくないわけだ。

 私の死んだ後になるかもしれないが、いつか掘れる日が来るだろう」

龍樹菩薩のお告げを聞き、ナグプール近郊で佐々井さんが発見した仏教遺跡。広大な広さで週末には訪れる人も多い 撮影/白石あづさ
龍樹菩薩のお告げを聞き、ナグプール近郊で佐々井さんが発見した仏教遺跡。広大な広さで週末には訪れる人も多い 撮影/白石あづさ

小さな坊主、荒波を越えて

 苦しみが続くとわかっても、民衆のため生きることを選んだ。若い時、3度の自殺未遂をした“死にたがり”の佐々井を“生きたがり”に変えたのは、インドの貧しいお母さんたちだ。

「日本と違い、インドでは僧侶の命は民衆が握っている。このお坊さんはいい人だから、食事を与えよう、お布施を出そうと考える。自分の子どもにすらろくなものを与えられないというのに、一文なしでやって来たこの汚い坊主に、お母さんたちが自分のご飯を差し出して半世紀も私を生かしてくれたんだ」

 冒頭の大改宗式で語った「小さな坊主」とは、謙遜ではなく本心からなのだろう。インド仏教の頂点に立った今でも、10畳程度の小さな自室にはボロボロのイスや扉の取れかかった冷蔵庫が置かれ、年代もののクーラーはひどい音を立てる。本や資料が山積みで、相談に来る人が2人も入ればいっぱいだ。

「後継者はおらん。男一代で終わり。私はこれからも小さな坊主としてインドに同化し生きていく。真理に向かい、ただひとり、ボロボロになっても杖をついて歩き倒れてもまた立ち上がる。いつかインドの大地に野垂れ死ぬまでな」

 佐々井は、そうつぶやくと大好きな日本の歌、坂本九さんの『上を向いて歩こう』を口ずさみ始めた。どんな荒波にも負けず、大衆を正しく導く強い人である。しかし、本当は涙をこらえながら必死で自分を奮い立たせ生きてきたのだろう。

「小さなお坊さん」が自分の生涯をかけ、粉骨砕身して切り開いた一本の道は、多くの人の未来を照らしている。

◎取材・文/白石あづさ

しらいしあづさ 日本大学芸術学部卒業後、地域誌の記者に。3年間、約100か国の世界一周を経てフリーに。グルメや旅雑誌などへの執筆のほか、週刊誌で旅や人物のグラビア写真を発表。著書に『世界のへんな肉』(新潮社)、『世界のへんなおじさん』(小学館)がある。