国の補助金という甘いワナ
「牛飼い人生の第一歩は宮古市の実家で、叔父が見かねて買ってくれた牛1頭から。土地は他人名義になっていたけど、家屋敷は母親の名義でかろうじて残っていた。そこを借りてね」
植林の下草刈りや鶏糞の取り次ぎ販売などをしながら、山地酪農ができる土地を探した。
“どこかに勤めて、小さな酪農から始めてみては……?”
エリートとなるはずだった息子を心配した母・セツ子さんから、そう言われたこともある。
だが、山地酪農への夢は諦めきれない。
そんな生活を5年続けた1981年、29歳のとき、ようやっと田老町の山奥に5ヘクタールほどの土地を借りることができた。
電気も水道もなかったが、山地酪農へのまぎれもない第一歩。胸が高鳴った。山から切り出した丸太と拾ってきたトタン板を使い、住居を兼ねた牛舎を建てた。が、電気がないから牛乳は牛乳缶ごと川につけておくのが精いっぱい。せっかくの牛乳を出荷できず、捨てなければならないこともたびたびだった。
当然、収入もままならない。年収といえば200万円以下。経費を引けば、手元に残るのは雀の涙ほど。だが、山地酪農研究会の後輩たちが見学を兼ねて研修にやって来る。弱音を吐くこともできない。
後輩たちの前では“将来は20ヘクタールの土地を持つ”など強気の言葉を口にしながらも、将来への展望は一向に見えてこない。明るい話題といえば、妻となるえく子さんと知り合ったことぐらいなものだった。
そんな中洞さんのもとに、ある日、夢のような話が舞い込んできた。
『北上山系総合開発事業』という国の農業政策がそれで、県と市町村が事業主となり、入植者を探しているという。
国の後押しのもと、入植者には1名につき50ヘクタール(採草地12ヘクタール、放牧地16ヘクタールと山林)の土地と新品のトラクター、巨大なサイロなどの最新設備が与えられる。投資額1牧場2億円のうち7000万円を入植者が負担しなければならないが、頭金すら不要だというではないか。
「とにかく現地を見てみるかと。北上山地って700メートルまで来ると山がなだらかになるのよ。牧場もひとかたまりで、“これしかない!”と思ったね」
だが、山地酪農の提唱者・猶原先生の声も、頭をよぎった。
(補助金に手を出したら、山地酪農はダメになる─)
手招きするような国の施策に乗るか、尊敬する師の言葉に従うべきか……。
迷いに迷った末、中洞さんは入植を決意する。
1984年、酪農を始めて7年目の31歳の春、現在のなかほら牧場のある上有芸地区に入植。牧場を、山地酪農に携わるすべての人と牛たちにとり桃源郷(楽園)のような場所にすべく、『桃源郷牧場』と名づけた。中洞さんの意気込みが感じとれる名前である。
だが楽園は開業早々、行政との考え方のギャップに悩まされることとなる。
「血税を使い、補助金で建ててもらったような格好だから、行政は絶対に失敗させたくない。失敗させないためになにをするか? “ご指導”が入るわけですよ」
農学博士や指導員と称する人たちが頻繁にやって来ては、野シバでなく栄養価の高い牧草を使用せよ、配合飼料を入れろと指導する。山地酪農の理想とは、正反対の指導ばかりだった。
「よく言われたのは、岩手県下では19戸入植したんだけれども、“いちばん頭数が少なくて乳量が少ないのはお前だ”と」
だが、中洞さんのこんな苦労をよそに、現場では山地酪農の成果が着実に芽吹き始めていた。
元気で食欲旺盛な牛たちが、山の下草を食い尽くしていく。
やぶが消えた山林には日光が降り注ぎ、牛たちの落とし物を肥料にして野シバが茂り、山を緑のじゅうたんに変えていく。さらに牛たちは太陽と星空の下、自然の呼び声に従って交配し、健康で元気な子牛たちが次々に誕生した。
7年後には、入植時16ヘクタールだった放牧地は30ヘクタールになり、牛50頭を有するほどになっていた。
(このまま続けていければ、猶原先生が言っていた酪農を実現できる! 国土の7割が山地という日本に合った酪農が実現できる!)
行政からの“ご指導”に反発したり、ケンカをしたりしながらも山地酪農に燃えていた1987年、中洞さんを、いや日本の酪農界を大きく揺るがす出来事が起こった。