◇ ◇ ◇
学生時代を振り返り、田丸さんが真っ先に思い出すのが高校受験のときの“挫折体験”だ。高校教師の父、専業主婦の母、2歳年下の弟、祖父母と6人家族だった田丸さんは、大阪で生まれ育った。勉強もスポーツもでき、躾に厳しかった父の影響もあり礼儀もきちんとしている。いわゆる優等生だったが、中学3年になったころ、少しずつほころびが見えはじめる。
「勉強の成績が落ちてきたのです。(周りは、私をできる子だと思っているのに、受験に落ちたらどうしよう)と、そんなことばかり考えていました」
しかも、極度のあがり症。授業中に、先生にさされただけで、冷や汗をかいて内心パニックになってしまう。こんな調子で、一発勝負の受験で力を出し切れるのか、不安がつきまとった。周囲の「しっかりしている子」「できる子」という評価と実際は大きなギャップがあったことに、当人がいちばん戸惑っていたのかもしれない。
結局、田丸さんは、実力よりも数ランクほど低い高校を受験し、トップクラスで合格した。
「そりゃあ、トップになりますよね。安全パイを選びましたから。いざ入学したら、派手な感じの子も多くて……、勝手に殻に閉じこもり、うじうじしていてパッとしない日々でした。でも、弱みは見せたくなかったので、周囲は気づいていなかったかもしれません」
高校の同級生で今も親交のある松保美子さんに聞くと、確かに、田丸さんに対する印象はまったく違う。
「パッとしない? そんなふうにはまったく見えませんでした。明るくて、まっすぐな性格は今も昔も変わらないし、スポーツも得意で、部活では、やり投げをやっていましたよ。今は着物姿が似合う女将ですが、昔は体育会系な面が前面に出ていました」
人知れず悶々とする日々を送る中、あるとき、ラグビー部の男子生徒とたわいない話をしていたら、こんなことを言われた。
「うちの高校はラグビー部が強豪だから、どうしても入りたかった。でも僕は、とても入れる成績じゃなかったから、必死に勉強して、自分の力を信じて入学できたんだ!」
田丸さんにとって、この言葉は衝撃だった。
「彼を通して、自分がいかに卑怯者か思い知ったのです。こんなにも自分の夢に向かって頑張っている人がいるのに、自分は努力も挑戦もせずに逃げる道を選んで、それなのに、入学してからも、周りへの不満や文句ばかり。先生のせい、親のせい、誰かのせいでこうなったと被害者ぶるだけ。そんな自分はもうイヤだ! と心底思ったのです」
このときの教訓が、その後の人生における指針になった。
「逃げるのだけはやめよう。そう決めたのです。逃げずに今、目の前にあること、できることを一生懸命やろうと思うようになりました。以後は、何があっても人のせいにせず(自分自身を顧みるきっかけになってよかった)ととらえていきました。私にとって全力を出し切らなかった高校受験は後悔だけが残りましたが、その思いが“災い転じて福となす”につながったと考えれば、どんな経験もムダではないのかもしれませんね」
短大に進んだ田丸さんはユニークなバイトを経験している。それが、ローカルのラジオ番組やテレビ番組への出演だ。当時、バブル直前の1985年。女子大生ブームで、素人でも「女子大生タレント」として活躍の場はたくさんあったという。
田丸さんは、タレントに憧れていたのだろうか?
「いえいえ。あがり症を克服したくて挑戦したバイトでした。あがり症のうえに、気も弱い。そんな状態では、いくら全力で頑張っても、この先、何かあるたびに実力の7割も出せないだろうと思い、どうにかしたかったのです」
いざ、ラジオやテレビに出ると、緊張ゆえ声が出ない、うまく話せない、話しても早口になってしまうなど失敗もたくさんしたが、このバイト経験は、のちに笹屋伊織の女将として接遇するときや講演など、仕事のさまざまな場面で役立っているそうだ。