作家になるのは無理と思ってた
よくしゃべり、いつも快活な脇谷さんだが、幼いころは真逆。黙って座っている静かな子どもだったそうだ。
生まれ育ったのは大分県佐伯市。海と山に囲まれた自然豊かな地で、父は郵便局員を、母は小学校の代用教員をしていた。結婚後に教員を辞めた母は、脇谷さんと妹を産んだあとも創作ダンスを教えるなど、活動的な人だった。
貧血で身体も弱い脇谷さんは小学校の朝礼で毎回のように倒れ、男子にからかわれた。休み時間に逃げ込んだのは図書室だった。
「そこで本に出会いました。たくさん読むと、すらすら書けるじゃないですか。作文の授業が始まり、先生にほめられると、私をいじめていた子たちが“オーッ”と歓声を上げて。これだけは勝てると思いました」
実家で暮らしたのは中学まで。進学校の佐伯鶴城高校に進み、家が遠いため寮に入った。当時、高校生に人気だった雑誌『高一時代』『高二時代』を愛読し、詩の投稿を続けた。
「結構な確率で載ったんですよ。鳶をしていた同級生が落ちて亡くなったことを書いた詩を、詩人の丸山薫さんが絶賛してくれて最優秀賞に選んでくれたんです。それで、書いて食べていけるかもと、錯覚してしまうんですね」
関西外国語短大に進学。卒業後も関西にとどまり、全日空に就職して、グランドホステスになった。働きながら詩や童話を書いていたが、発表するあてはない。
「作家になりたいけど叶わないと思うんだよね」と会社の後輩にもらすと、「やる前から無理だと思ってるの?」と指摘され、ドキッとした。
「失敗するところを他人に見られたくないとか、プライドが高かったんでしょうね。そのときは頑張ってもプロにはなれなかったけど、1年たったら変なプライドが消えていたんです」
23歳で全日空を辞め、研究職の男性と結婚した。先に夫の父と知り合い、すっかり意気投合したのだという。
「義父は知らん人にも、どないやーと声をかけるような、関西のオッチャンで、本当におもろいんです。すすめられて息子と会うてみたら、もの静かな人でした。“一生懸命仕事してんねん。ええやっちゃで。うちに嫁に来いへんか”と、義父にプロポーズされたんですよ(笑)」
あと50センチ車道に出たら楽になる
26歳で正嗣さんを、28歳でかのこさんを出産した。
ところが、生後2か月を過ぎても、かのこさんは上をじっと見たままで、目で物を追わない。
「目が見えてへんの違うか?」
夫に指摘されて、総合病院で検査をすると、こう告げられた。
「脳自体が萎縮しています。脳性麻痺という障がいで薬では治りません。目も見えるようになるかわからないし、耳が聞こえているか、調べるすべがありません」
脇谷さんは呆然としたまま帰宅した。すぐに当時住んでいた大阪府堺市の近所で、障がい児を育てた経験のある人を探した。筋ジストロフィーの息子を16歳で亡くした60代の女性が見つかり、訪ねていった。
「こんだけの障がいのある子、よう育てん」
脇谷さんが泣き崩れると、そのオバチャンは、なぜか笑顔で言った。
「よかったな。こっからがほんまもんの人生や」
「嫌です! ほんまもんの人生なんか歩きたくない」
泣き続ける脇谷さんに、オバチャンは繰り返した。
「あんたやで、あんたが変わらなあかんねんで」
成長するにつれ、かのこさんはけいれんの発作を頻繁に起こすようになった。寝返りすら打てなくなり、首もすわらない。手足などが勝手に動く不随意運動がひどく、ベビーカーに乗せると落ちてしまう。すぐに体調を崩し、毎月のように入院した。
小学校に入学する年齢までには歩けるようにしたいと、懸命にリハビリをしたが、状態は悪くなる一方……。
専門の施設に預ければと言われるのが怖くて、内心の焦燥を夫にすら見せず、いつも明るく振る舞った。
どうしてもこらえきれなくなると、ひとりで泣いた。そんな母の姿を、まだ幼かった正嗣さんは覚えている。
「部屋の隅っこでしょっちゅう泣いていました。母は僕が見ていないと思っているけど、見てましたから」
唯一、オバチャンの前では弱音を吐いたが、何度訪ねて行っても、かけてくれるのは同じ言葉だった。
「あんたが変わらなあかん」
ある日突然、脇谷さんは食べられなくなり、仮面うつ病と診断された。自分が死んだら、かのこさんはどうなるのかという不安が原因だった。
いっそ一緒に死んでしまおうとは思わなかったのか。恐る恐る聞くと、「ありましたよ」とあっさり答える。
凍りつくような冬の日。バスの発車音に驚いて背中におぶったかのこさんが泣き叫んだため、寒がる正嗣さんを抱っこして、トラックが行き交う国道沿いを歩いて帰った。
「あと50センチ、車道に出たら楽になるんやろうな」
死の誘惑にかられそうになったが、そのまま10歩、20歩と歩き続けていると、今度は笑えてきたそうだ。