アマゾンにハマった男
関野は、男ばかり5人兄弟の末っ子として1949年、東京・墨田区に生まれた。父は教育者だった。兄の正俊さんは「素直が取り柄のおとなしい子だったけど、芯が強かったですね。兄弟で相撲を取ると勝つまでかかってきて往生しましたよ」と笑う。高校では柔道部に入部。卒業後、一橋大学法学部法律学科に入学し、探検部を創設し、大学3年に1年間休学、アマゾン川全流域を下る。その後、中南米を旅行し、どんどん探検に、アマゾンへとハマっていく。
7年かけて法学部を卒業した後、探検家に必要な知識を身につけようと、社会学部3年に編入し、社会人類学のゼミを受講する。
「その間も、アマゾンに通って、密林で生きる先住民の人々に会っていました。彼らと同じものを食べ、一緒に狩りに出かけ、同じ屋根の下で暮らしました。彼らの生活は自然に依存していました。僕は、自然とともに生きる彼らの知恵や知識にどんどん惹かれていったのです」
そして、関野は先住民の人々との関わりを継続する方法を考えてみた。カメラマン、人類学者、ジャーナリスト……。しかし、アマゾンの友人たちを調査や取材の対象にはしたくない。とはいえ、彼らにとって自分は役立たずの居候にすぎない。何か彼らの役に立てないか──。そこで関野はとんでもないことを思いつく。
「医者になればいいじゃないか。医者になればアマゾンで医療活動もできる。また、その知識や技術は、探検家としても必要なものだと思った」
そこで、医者になるべく横浜市立大学医学部に入学。卒業後は外科医となる。その直前に結婚。病院勤務と探検を2、3年おきに繰り返す生活を続けた。アマゾンに滞在した日数は、20年間でのべ3000日以上になっていた。
「私たち日本人とアマゾンの人々は、考え方も自然との関わり方も正反対。ところが、外見や顔つきはものすごく似ている。アマゾンの町で、僕が村にいる時のように裸足で歩いていると“あんたは何族だい?”と尋ねられる。彼らとわれわれ日本人のルーツは同じ、アジア系だと実感しました。では、太古の人々はアマゾンまでどんな旅をしてやって来たのか。そんな発想からグレートジャーニーは始まったのです」
探検家が美大の教授に
映画『カレーライス〜』の監督を手がけたのは、映像製作会社ネツゲンのスタッフ、前田亜紀(41)だった。
「私はもともと関野さんの大ファンで、グレートジャーニー世代。若いときにテレビにかじりついて見てました。あれは不思議な番組でしたね。普通ならアグレッシブな探検家風に見せるのに、関野さんがたまに出てきて、ボソッと何か言って、後は広大な風景が広がってというような……。いったいどんな人なんだろう、とすごく興味がありました」
’02年2月、関野のグレートジャーニーは完遂した。その2か月後、関野は東京・小平市の武蔵野美術大学(武蔵美)の文化人類学の教授として教壇に立っていた。
「武蔵美には、以前から特別講師として何度か呼ばれていました。“旅する巨人”と呼ばれた宮本常一先生が武蔵美で教えていて、また宮本先生が所長をしていた『日本観光文化研究所』には、民俗学が好きな旅好き、登山家や探検家が集まっていました。僕もそこに関係していた縁で、武蔵美で文化人類学の教授が欠員になり声をかけられた。でも、僕は『グレート〜』の最中だったので断っていたんですね。そしたら、“待ってる”というので、終わった途端に、教壇に立つことになったわけなんです」
さて、美大の教授となった関野だが、ここで安泰とはならないのが、この人のこの人らしさの所以である。
「美大ですから文化人類学といっても、文化人類学者を育てるわけではない。だから、自分が見たこと、聞いたこと、考えたことを語ってくれればいい、ということでした。大学も、学生たちに刺激を与える人を望んでいたようですね。美大の学生たちは、学問的にどうのこうのよりも、教員の“生き方”を見てるんですよ」