戦争で医師としての無力感を感じた

「僕はね、タイタニック号が沈没した年の1年前に生まれたんですよ」

 日野原さんは講演などで自己紹介するときに、よくこう言って会場を沸かせた。

 1911(明治44)年10月4日生まれである。6人きょうだいの次男。父親はプロテスタントの牧師である。生まれは山口市だが、少年時代は神戸で過ごす。日野原さんが書いた初めての自叙伝『僕は頑固な子どもだった』によれば、幼いころは丸顔で「西郷さん」と呼ばれたり、人前に出るとすぐに赤面するので「金時さん」とも呼ばれたという。

 しかし内面は、強烈な負けず嫌い。同書の編集をし、10年以上、日野原さんを担当した、雑誌『ハルメク』副編集長・岡島文乃さんはこう話す。

「きょうだいでトランプ遊びをしていたとき、自分が負けそうになると、妹の脚をつっついたそうです。後年、妹さんがそのことを言ったら、“そうだよ、僕は負けず嫌いだからね”とすましていたとおっしゃったようです」

 そんな日野原さんをよく知る日曜学校の先生は、母親にこう言ったという。

「しいちゃん(重明君)はよい方向に育てばいいけれど、悪い方向に向かえば、大変な子になりますよ」

 よい方向に育つきっかけになったのは、母親の病気だったかもしれない。重い腎臓病にかかり死線をさまよったことがあった。日野原さんは、神様に「お母さんを助けてください」と祈るぐらいしかできなかったが、医師が適切な治療をした結果、危機を脱出する。その一部始終を見た重明少年は、「人の命を助けるお医者さんになろう」(前掲書)と決意するのである。

 京都帝国大学医学部を卒業後、研修医として働くが、ひとりの少女の死に接し、医師の仕事とは何かという問題に直面する。

 少女は16歳。紡績工場で働いていたが、結核性腹膜炎という病名で入院していた。腹痛と吐き気で、次第にやせ衰えていった。母親はなかなか見舞いに来ることができない。母子家庭で、母親は働き詰めだったからである。

 症状は悪化の一途をたどる。入院から3か月後、打つ手なしの状態に。彼女は死を悟ったようにこう言った。

「先生、どうも長い間、お世話になりました。……私はもうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います。……先生、お母さんには心配をかけ続けで、申し訳なく思っていますので、先生から、お母さんによろしく伝えてください」(『死をどう生きたか』)

 日野原さんは、このとき、

「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」と、励ましてしまう。

 強心剤を打つも身体は反応せず、茶褐色の胆汁を吐く。不要な治療を加え、安らかな最期を妨げていた。少女を苦しめてしまったことを、日野原さんは後悔する。

 死を受容した彼女に、どうして「安心して成仏しなさい」と言ってあげられなかったのか。なぜ彼女の手を握っていてあげなかったのかと。

 医師としての無力さを痛感する体験もした。太平洋戦争である。大学時代にかかった結核の後遺症があり、すぐには召集されず、勤務していた聖路加国際病院で診療にあたっていたのだ。後年、日野原さんの活動を支えた看護師の石清水由紀子さんは、当時の話を聞いたことがある。

「東京大空襲のときなどは、ケガをした人が次から次へと運ばれてきたといいます。でも薬が満足に足りませんから、大ヤケドを負った人にも、新聞紙を燃やした粉しかかけられない。亡くなっていく人の死亡診断書を書くばかりで、本当につらかったそうです。特に100歳を過ぎてからでしょうか、そういう話をされるときは、苦渋の表情を浮かべておられました

 そんな経験から、「戦争をしない」「軍隊は持たない」ことを明記した日本国憲法は大切だと訴え、改正には反対し続けた。一昨年、安全保障関連法が成立した際も、記者会見で強い口調で言った。

「私は絶対反対です。全く反対。本当の憲法というのはもっと恕しがある。それが憲法のエッセンスです」