患者の心にまで寄り添う医療を始める

 日野原さんにとって、大きなターニングポイントになったのは、1970年に起きた「よど号」ハイジャック事件である。学会出席のため搭乗した日航機が赤軍派によって乗っ取られたのだ。4日間機内に閉じ込められ命の危険も感じたが、無事解放される。

 当時、日野原さんは58歳。この経験を通して、残りの人生を与えられた寿命ととらえ、こう考えるようになる。

「第二の人生が多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと希ってやみません」(日野原さん夫妻が出した関係者への挨拶状より)

 日野原さんは、人の命を守る先駆的な試みを、次々に行い始める。

 例えば、全人医療病気を治すには、病気の部位だけに注目するのではなく、患者それぞれの人生、食生活や住環境といった生活環境も把握し、なおかつ心にも寄り添いながら行われなければならないというスタンスだ。

 興味深いエピソードがある。語るのは、障害のある人の施設『ねむの木学園』理事長の宮城まり子さん。

2016年に開かれた『ねむの木学園』役員会で、理事長の宮城さんと。日野原さんは宮城さんを励まし続けた。宮城さんが手にしているのは、ねむの木学園の映画のビデオ
2016年に開かれた『ねむの木学園』役員会で、理事長の宮城さんと。日野原さんは宮城さんを励まし続けた。宮城さんが手にしているのは、ねむの木学園の映画のビデオ
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 40年ぐらい前のこと。過労で体調を崩し、聖路加国際病院に入院していた。脚も腫れていて歩けなかったのだ。

 ある日、日野原さんが宮城さんの病室に入ってきた。旧知の仲だから、言葉遣いも態度もフランクだ。

「まりちゃん、僕の脚のほうが腫れているよ、ほら」

 そう言って、ズボンの裾をまくり上げてみせた。まず目に飛び込んできたのは、毛むくじゃらのすね。次に見たのは腫れているふくらはぎ。ジッと脚を見入る宮城さんに、日野原さんは言った。

「1日、仕事をしていれば脚も腫れるよ。仕事に負けていてはダメだよ。君は大切な仕事をしているんだから。もっと頑張らなきゃダメ」

「はい」

「もう治った!」

 病室を出ると日野原さんは、エレベーターは使わず、階段を上がっていった。

お医者さまが自分の脚を見せる。ほかのお医者さまはそんなことをしないと思うけど、日野原先生はそこから感じるものを望まれたのだと思う。私のような者には、こういう治療法がいちばん効くことをおわかりになっていたのです。私の脚、まだ腫れていたけど、気持ちの面で立ち直って、数日後に退院した。名医だと思う。

 あれから何度も入院したり、“先生、もう疲れた、もうやめる”と弱音を吐いたりすると、“何言っているんだ、僕はまりちゃんより15歳も上なんだよ、頑張らなきゃ!”と言ってくださって。そんなふうに私のことを励ましてくださいました」

 それから約20年後、宮城さんが最愛の作家、吉行淳之介さんを看取った際、日野原さんが横にいた。聖路加国際病院の病室で、宮城さんは、作品を書いてきた吉行さんの右手を持ち、日野原さんが左手を持って見送った。当時、吉行さんはねむの木学園理事。死後、日野原さんが引き継ぎ理事長代行に就任した。日野原さんらしいエピソードだ。