“新しい老人”の生き方を探る
それ以外にも日野原さんは、医療の世界に、命を守るための革命的な発想を次々に世に問うていく。
例えば、人間ドック。病気の早期発見・早期治療が大事だと、日野原さんはごく早い段階で病院に導入したが、それでも十分でないと考えた。そこで始めたのが、「予防医療」である。当時、活動をともにした紀伊國献三さん(笹川記念保健協力財団最高顧問)は、次のように話す。
「それまでの医療は、治療に大きな力点が置かれていました。そこから一歩進んで、予防医療をやらなければと、日野原先生は考えたのです。そして自分の健康は自分で守ることの大切さを説いたわけです」
日常生活に、病気にならないような食生活や運動習慣といった、いわば「生活習慣」の概念を広めようとした。
いまでは誰でも知っていることだが、日野原さんは’70年代から予防の大切さを訴えていた。それを普及するために、’73年、「ライフ・プランニング・センター」という財団法人を立ち上げた。途中、聖路加国際病院院長の誘いもあったが、それを断っても、この財団に力を注いだ。
「成人病」を「生活習慣病」に変えるよう、厚生省(当時)に働きかけたのも、そうした活動の一環である。
家庭で血圧を測れるようにしたのも、日野原さんの運動の賜物だ。同財団に’80年から職員として関わった前出の石清水さんはこう話す。
「血圧の自己測定運動も、最初、多くの専門家は“とんでもないことだ”と反対しました。でも、先生は自ら全国を回り、聴診器を用いた血圧計の使い方を主婦にも教えていました。勇気のいることだったと思います」
その後、電子血圧計が普及し、自己測定は当たり前になった。負けず嫌いで頑固な日野原さんの面目躍如である。
さらに日野原さんは、「新老人の会」を、2000年に立ち上げる。新しい老人の生き方を探る会だ。設立当初から同会の事務局長を務める前記の石清水さんが語る。
「それまでの老人は人に迷惑をかけないように生きるという考えが一般的でした。でも日野原先生は、高齢者だからこそ持っている知恵や経験を社会に還元することを考えました。また新しいことにチャレンジして生きがいを見いだすことも大事だと訴えました。老いることを“新しい価値”ととらえたわけです。仲間を増やして、あの人がやるなら私もと刺激しあうような国民運動にしたのです」
3、4年前までは、年間30か所で講演をし、「新老人の会」が全国組織になるよう努めた。そのかいあって、ピークの2011年には、会員は1万2千人を数えた。
「新老人の会」のいちばんのモデルが日野原さんであったことは誰もが認めるところだろう。
連載を何本も抱え、生き方などいろいろな考えを広めた。80歳で聖路加国際病院の院長を引き受け、その3年後に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。日野原さんはその日の外来診察を中止し、被害にあった640人を引き受けることを決断、命を救ったこともあった。
90歳を越えても、若い人がエレベーターを使っているのを横目に、書類がいっぱいに入った紙袋を抱えながらでも階段を上がる。100歳になってようやく「徹夜はそろそろやめようか」というスタミナにも驚かされる。
新しいことに挑戦するのが大好きで、90代後半から俳句や絵画を始め、100歳からFacebookを使って「新老人の会」会員にメッセージを伝えるようになった。