授業を抜けて、一本松の下で夢見た将来
小学校2年生から高校時代まで、蒲島は1日も休まずに新聞配達をしていた。きょうだい全員がそうやって家計を助けていたのである。そして読めない漢字がありながらも、新聞を読むのが日課となっていったという。
小学校から高校まで同じ学校で仲がよかった芹川孝弘さんは、当時の蒲島をこう語る。
「うちも貧乏だったけど彼の家もひどかった。彼は小さくて特に目立つ子ではなくてね、小学校のときは図書室に入り浸って本ばかり読んでいました。図書室にある本はほとんど読破したんじゃないでしょうか。新聞も読んでいたから、中学のときは豊富な知識が目立って、ワルゴロ(ガキ大将)にいじめられたりしていました」
だがケンカすることも、いじめた子を悪く言うこともなかった。常に淡々と事態を受け止める子だったらしい。
勉強はほとんどしなかったものの、地元の鹿本高校に合格した。
「1学年220人のうち常に200番台にいました。学校へは行くんだけど、抜け出して近くの小高い丘にある一本松の下でごろごろしながら本ばかり読んでいました」(蒲島)
もちろん芹川さんも当時のことを覚えていて、その場所を案内してくれた。今は一本松公園として整備されているが、村を一望できる丘で、ここで蒲島少年が将来の夢を追いながら寝転んで本を読んでいたのかと思うと感慨深い。
「私には3つの夢があったんです。大牧場主になること、小説家になること、そしてもうひとつはカエサルのような立派な政治家になること。だけどあのころはどうしたらいいかすらわからず、ただ寝転んで本を読んでいたんです」
高校を卒業すると、蒲島は熊本市内の自動車販売会社に就職した。ところが彼はこの会社を1週間で辞めてしまうのである。会社まで自転車とバスで片道3時間半の道のりを通いきれず、すぐに風邪をひいてギブアップ。
そして家から自転車で10分ほどの農協に転職した。実家も農家だし、農業には興味があった。2年間勤めたものの「当時の農協のありようが納得できなかった。農家が必要としない機械や、農業と関係ない冷蔵庫などを売りつけたりもしていた。私の理想の農協と現実とのギャップが大きすぎた」(蒲島)ために退職の2文字が頭をよぎり始める。そんなとき、新聞で「派米農業研修生プログラム」の広告を発見。これが彼の人生最大の転機のひとつとなった。