アメリカで重労働と猛勉強の日々
このプログラムは農業青年をアメリカに2年間派遣するという制度。その中に「肉牛コース」があった。
「阿蘇山の麓で牛を飼って大牧場を経営したいという夢が現実になるかもしれない。そんな思いで必死に英語を勉強して試験を受けました」
4倍以上の難関をくぐり抜けて合格。1968(昭和43)年、21歳の彼はアメリカへと羽ばたいた。
語学研修を経て落ち着いた先はアイダホ州の牧場だった。広大な土地で、日の出前から晩まで何百頭といる牛や羊の世話に明け暮れた。肥料作りや牛の病気の予防、畑の手入れも蒲島青年の仕事だった。研修とは名ばかりで労働力として期待されていたのだ。この時期を「本当につらかった」と蒲島は振り返る。
「不平不満があるうちはまだ余力があるんですよ。本当に疲れ果てると不満さえ湧かない。農奴のように肉体を酷使して働いて、何も考えずにただ眠りにつくだけの毎日でした」(蒲島)
重労働に過酷な環境、さらにウマの合わないボスとひとつ屋根の下に暮らしていることもストレスを増大させた。あげく、仲よくしていた同僚に自分の給料半年分を貸して逃げられてしまうのだ。
「ただ、私はこの事件がそれほどショックではなかったんですよね。むしろ研修生のお金を持ち逃げするほど追いつめられていた彼に同情しました。彼も安い給料で働いていたのでしょう。15か月に及ぶアイダホでの研修後、ネブラスカ大学で学科研修を受けることになっていて、そこでの貧乏生活は想定内だったけれども、私は貧乏には慣れていたのでね」(蒲島)
当時、蒲島を支えていたのは、のちに妻となる富子さんである。渡米直前、熊本市内で出会った県庁職員の彼女に一目惚れして告白。渡米してからもずっと文通を続けていたという。今のようにメールですぐに連絡がとれる時代ではない。3、4日に1度は必ず手紙を書いていたそうだ。
ネブラスカ大学農学部での学科研修は3か月。
「楽でしたね(笑)。それまでのような重労働をせず、勉強だけしていればいいというのがうれしくてたまらなかった」(蒲島)
そこで彼は優秀な成績を収めたが、高校時代は「落ちこぼれ」であった自分がこのまま日本に帰るのはもったいない、もっと勉強したいと思うようになっていた。
そこで、1度帰国して住み込みで牛乳配達をして働き、半年間でアメリカへの片道切符を買った。富子さんとは再度、遠距離恋愛になるが、アメリカで生活できるようになるまで待って結婚することも約束してくれた。
その確約があったからこそ、蒲島青年は戻ったネブラスカ大学で奇跡を起こすのだ。