不合格! 仮入学から特待生へ
彼に与えられた期間は3か月。その間に、大学で日本の研修生向けに通訳のアルバイトをしながら、大学の入学試験を受けることをネブラスカ大学から許可されたのだ。
ところが収入を得ながら受験勉強をするのは、とんでもなく大変なことだった。結果は不合格。富子さんに合わせる顔がないと落ち込んでいると、通訳を務めていたコースの担当講師が入試担当官にチャンスを与えるよう直談判してくれた。
「彼はやる気があってすばらしい学生だと言ってくれたんです。その先生のおかげで、私は仮入学できることになった。アメリカは寛大な国だと驚きましたね。やる気があればチャンスをくれる」
どんなときも一生懸命やっていれば、きっと見てくれる人がいると蒲島は実感した。
そして仮入学期間中に、「ストレートA」(日本でいうと全優)という結果を出したのだ。約400人の学生のうちストレートAは10人。その中に入ったのである。
「あのときほど勉強したことはありませんでした。これでダメなら帰国しなければいけない。彼女との結婚もどうなるかわからない。追い込まれていたから、120パーセントの努力をしました」
仮入学から一転、特待生へ。授業料は半額免除、そして各方面から奨学金が集まってきた。特待生は必修科目が課せられないから好きな科目を受講することもできる。彼はすぐに富子さんを呼び寄せて結婚した。大学1年生で結婚とはまた大胆である。
「これ以上、彼女を待たせたくないという思いでした」
一方、富子さんは東京へと向かう新幹線の中で送ってくれた母親に言われたそうだ。「今ならまだやめられる」と。
「実際会うより手紙のやりとりのほうが多い交際でしたから、まったく不安がなかったわけではなくて」(富子さん)
とはいえ、そのとき富子さんは自分のすべての貯金を持っていった。夫に何かあったときのための「保険」として。
「結婚生活は貧乏ではあったけど楽しかった。州外からの者は特待生であっても授業料は半分払わないといけない。これが高いんです。しかも教材費もかかる。奨学金はあるけど生活は切りつめなければやっていけなかった」(蒲島)
大学では豚の精子の保存方法を研究した。4年後、卒業を目前に控えて蒲島にはいくつかの選択肢があった。お世話になった指導教授から研究室に残らないかと誘われてもいた。残れば安定した生活を送ることもできる。
「そのとき、一本松の下で描いた夢がまた湧き起こってきたんです。政治学を勉強したい、どうせならその分野で有名なハーバード大学で一流の研究をしたい、と。無謀だけど逆境の中でこそ頑張れるのが私の強みですから(笑)」
車の盗難に泰然とした対応
そして、なんと彼はハーバード大学院に受かってしまうのだ。ネブラスカ大学の教授たちが強力な推薦状を書いてくれたらしい。それもまた蒲島の人徳である。
ハーバードで初めて蒲島に会い、40年以上、公私ともに親しい五百籏頭真さん(熊本県立大学理事長・「くまもと復旧・復興有識者会議」座長)は、「私も決してエリートではなかったから、蒲島さんとは気が合ったのかな」と笑う。
「ハーバードにいたころ、ある日本の経済学者が自宅でパーティーを開いて、私も蒲島さんも呼ばれたんです。そこに警察から連絡があって、彼の車が盗まれ、スプレーで真っ白に塗られたあげく、ぼこぼこになって放置されている、と。車がなくなったらアメリカでは生活していけませんからね。ただ、その電話を受けているときも電話を切ってからも、蒲島さんは泰然としていた。普通だったらパニックになるでしょ。彼は愚痴るわけでも怒るわけでもなく、淡々としていた。この人はすごい人だなと思いました」
そして蒲島は、ハーバード大学院を優秀な成績で、しかも3年9か月で博士課程まで修了した。奨学金が4年しかなかったので、ここでも必死で勉強したのだという。
そして10年間のアメリカ生活を終え、妻と3人の娘たちを伴って帰国した。