ポジティブでなければ、五輪の神は微笑まない
スノーボーダーとしての急成長を遂げ、2010年バンクーバー五輪のシーズンは世界ランク3位まで上昇。周囲からは「メダル獲得間違いなし」と評されていた。自身もスイスで得た経験を糧に表彰台に上がり、選手の待遇や環境面で立ち遅れている日本スノーボード界へのアンチテーゼを突きつけてやろうというくらいの意気込みはあった。
「バンクーバーまでの3年間をスイスで過ごして、向こうの環境のよさ、レベルの高さを含めて“いいな、羨ましいな”という気持ちが募る一方だったんです。最初からスイス人として生まれていたら、もっと簡単に世界トップに行けたと思った。
あのころの自分はそんな悔しさ、反骨精神の固まりでした。“バンクーバーでメダルをとったら日本のやり方が正しくないという証明になる”とも考えて、カバンにスイスと日本の国旗を入れてカナダへ乗り込みましたからね」
フタを開けてみると、結果は13位。トリノより順位を落とすショッキングな結末だった。結局、どれだけ頑張ってもスイス人にはなれない。日本人・竹内智香である事実は変えられない。
生まれた環境や歴史をどう変えていくか。そうやってポジティブシンキングにならなければ、五輪の神様は微笑んでくれない……。それが3度目の五輪を経て、彼女自身が至った真理だった。
「スイスに行って成績がよくなり、表彰台に上がれたのはひとつの事実でした。でも環境の難しさを含め、日本人としてすべてを受け入れなければ何も始まらない。マイナス要素ばかり見るのではなく、日本人に生まれて何がよかったのかをプラスに考えることが大切なんだと。
どこにいてもいいところと悪いところはある。そのことに気づくいいきっかけになりました」と本人も神妙な面持ちで言う。
日本人の壁を越え、日本人の強みを生かす
ソチまでの4年間はその厳然たる事実を受け入れる貴重な時間だった。そんな彼女の背中を押してくれたのが、バンクーバー直後から専属コーチについてくれたオーストリア人のフェリックス・スタドラー氏だ。
スイス代表の扉をこじ開けた時と同様に「もちろん私のコーチになってくれるんでしょ」というくらいの体当たりなスタンスで口説き落としたこの指導者との出会いが、竹内のさらなる進化につながった。
「トモカが私に声をかけてきた時、ともに戦う準備ができているなと直感しました。彼女は基本的なスノーボード技術が高いうえ、何事に対しても100%以上の力で戦っている。その強い意志とモチベーションは非常に大きな武器です。
私はトモカの意見を聞きアドバイスをするコンサルティング的な役割が多いですが、ぶつかり合ったことも何度かあります。それでもわれわれは長く一緒に働いている。それだけトモカのスノーボードへの情熱と向上心がすさまじいということ。そうでなければアスリートとして成功できないでしょう」
とスタドラー氏は足かけ7シーズン、二人三脚で歩んできた教え子との強い絆を改めて口にする。