あきらめ撤収しかけたときに、大発見!
翌’67年からカイロ大学考古学研究所に留学した。ここで現地のエジプト考古学の教授たちと出会い、さまざまな発掘調査に同行させてもらう。
「現場を経験し自信を深めました。でも、いざ日本人でチームを結成して調査をするとなると、エジプト政府の許可が必要で、発掘権を握っている考古庁の長官がなかなか会ってくれませんでした」
そんなとき、カイロからルクソール行きの飛行機で偶然にも考古庁(現在の考古省)長官のモクタール博士と隣り合わせになる。吉村さんが発掘調査に対する熱い思いを伝えると、博士は親身になって耳を傾けてくれた。
吉村さんは博士を日本に招待し、日本の発掘技術を見て認めてもらい、ついにエジプトの発掘権を取得する。
’71年12月からアジア初の調査隊として、エジプト政府から割り当てられたルクソール西岸の発掘を開始した。しかし掘り続けても何も出ない年月が流れた。
「国の科学研究費補助金を受けられる3年の期限が終了しようとしていた’74年1月15日、川村先生と、もうあきらめよう、いい経験ができたねなどと話してテントをたたんでいたんです。するとエジプト人の作業員が何かありそうだと言うので掘ってみたら、1時間で彩色階段が出ました」
それは第18王朝のファラオ、アメンヘテプ3世の祭殿「魚の丘遺跡」の一部と見られるもので、美しい絵が施された階段だった。発見のニュースは世界中を駆け巡り大きな話題となった。
発掘の途上で川村先生が急逝するという悲劇もあったが、プロジェクトはほかの教授に引き継がれ、’76年にはルクソール西岸に研究施設、ワセダハウスも完成し、活動に弾みをつけた。