ミイラをベッド下に置いて寝た
早稲田大学古代エジプト調査隊は、’82年、ルクソール西岸クルナ村の貴族墓で約200体のミイラを発見し、’87年にはクフ王の第2の太陽の船を見つけるなど、4、5年に1度のペースで大きな発見をした。
「クルナ村では、掘れば掘るだけミイラが出てきました。出てきたものは、盗まれないように考古庁の倉庫にしまうのですが、とりあえず宿舎に持ち帰ってベッドの下に置いておくこともありました。最初のうちはミイラが怖くてとても嫌だった!(笑)」
’05年にはダハシュール北遺跡で青いマスクをかぶった司令官セヌウの未盗掘完全ミイラを発見し、世界を驚かせた。同じ現場で珍しい親子のミイラが発掘されたとき居合わせたというのが、30年前から吉村さんのエジプトでの記録映像を撮り続けているカメラマンの朝田健治さん(67)だ。
「それは調査期間の終わりが近づいていた時期で、掘り進めていた箇所に岩盤が出てきたりして、先生もさすがにムッとしていたときでした(笑)。まず装飾が施された親の人型木棺が発見されたときは、歓声が沸き上がりましたね。
発掘現場には専門家や若いスタッフ、エジプト人の作業員など、さまざまな人がいるのですが、先生はいつもフランクな態度で全体を取りまとめています」
宿舎には大きな風呂場があり、食事は味噌汁やご飯など日本食のメニューも多く、日本人の調査隊が快適に過ごせるように工夫されているという。夜、カラオケ大会になると、吉村さんは十八番である千昌夫の『北国の春』を披露するのだとか。
「行動力と緻密さを持ち合わせたカリスマ性がある人。それでいて包容力があるのでその魅力にみんなが集まってくるんです。私ももう年ですが、先生が頑張っている間はご一緒させていただき、歴史的瞬間に立ち会いたいですね」
10年越しの「教授昇格」の真相
吉村さんは’87年、44歳のときに早稲田大学人間科学部の助教授(現在の准教授)に就任した。
「通例では助教授は3~5年で教授になれるということだったので、4年目に昇格願を出しました。ところが、人事委員会で私だけNOだったんです」
吉村さんの教授選は、その翌年も保留となり、結局5年間は昇格しなかった。テレビ出演の多さがダメな原因だとも言われ、週に8本持っていたレギュラー番組を一斉に降りた。
学部内の教員が誰も口をきいてくれなかったり、ポストの書類を捨てられて、会議の通知を受け取れなかったこともある。
「隠れていて犯人を見つけて、どうしてそういうことをするんだ? と聞いたら、俺はお前が嫌いだからと言われた。それだけの理由か、そうならいいやと(笑)。
よく考えてみたら、みんなが僕のことを嫌うわけがわかったんです。テレビに出たり、本を書いたり講演会をしたり……僕のような存在がいたら嫌なのは当然です。僕が逆の立場だったら、悔しがったり、妬みの気持ちを抱くでしょう」