骨形成不全症は2万~3万人に1人の発生頻度だといわれる。生まれてすぐに亡くなるケースから、ほとんど症状の出ない人までさまざまだ。
進さんは高校の英語教諭、妻も家庭科教諭で共働き。仕事の都合で北部の今帰仁村に住んでいたとき、三女の夏子さんが生まれた。
赤ん坊のころは特に弱く、抱っこしただけで骨折したこともある。骨を強くする注射を1日おきに家で打った。進さんはかわいそうで嫌だったが、妻は顔に出さずに打ってくれたので助かった。
1年後に那覇市に戻り、進さんが夜間の高校に転勤。夏子さんが小学校に入るまで、昼間は面倒を見ていた。近くの子どもを集めて遊ぶ一方、自作ドリルを使って娘たちに1人1時間ずつ教えるなど勉強も厳しくさせた。
「上の2人と違って、末っ子の夏子だけが勝ち気でね。決して自分からは参ったとか言いませんし、親の言うことは聞かない。手を焼いたことが何回もありましたが、その“我の強さ”が、いい方向に向いたのかなと思います」
6歳のある日、夏子さんはこんな決心をした。
「骨折しても泣かないって決めたんです。泣くと、ヒクッヒクッという振動で、余計に痛いってわかったから。
次に骨折したとき本当に泣かなかったら、両親は病院に連れて行ってくれなくて。メッチャお願いして診てもらったら、キレイに折れてました(笑)」
幼いながら、自分の障害を受け入れる第一歩だったのだろう。
さらに両親の育て方のおかげで自立心が養われた。共働きで忙しい伊是名家では「たとえ障害があっても、自分でできることはやりなさい」という方針だった。
例えば、料理。最初は母に教わったりしながら、夏子さんは7歳のころから料理やケーキ作りを開始。1人で留守番しているときもガスコンロの前にイスを並べ、その上に立って料理をしたが、落ちて骨折することも──。
それでもめげなかったのは、進さんの言う“我の強さ”だろう。治るとまた毎日のように料理をして上達。ひとり暮らしを始めてから役に立った。
夏子さん自身は3歳上の姉の存在が大きかったという。姉のようにすることが当たり前だと思い、姉がピアノを習うと自分も習い、習字教室に行くと一緒に行く。小5からは進学塾にも通った。
「かわいそうとか、大変だねとか言う人もあまりいなくて、“なっちゃんはこうなんだよね”と、みんな普通に受け入れてくれました。そんな居場所が、地域のあちこちにあったのは本当によかったです」