「まずは落ち着いて。ここは思い切って、他の正しいサイズの木材も、間違って短くしてしまったものと同じ長さに揃えましょう。そして切った木片を四角く組んで枡組(ますぐみ)を作り、寸足らずになった部分をおぎなってはどう?」
結果的に、彼女が考えた方法はとてもうまくいった。高次が大変な失敗をしたと思う者は誰もいなかった。本堂を見た者はみな美しく凝った意匠に感動した。
上棟式の前日、高次はピンチを救ってくれたおかめに改めてお礼を言おうと思った。しかし、朝からずっと姿が見えない。
ようやく探し当てたとき、妻は人目につかないところでひっそりと自害していた。
女である自分に窮地を助けられて仕事を成功させたということが世間に知られたら、夫の名誉に傷がつく。そう思い、彼女は自ら死を選んだのだった。
悲しみのなかで上棟式が執り行われた。高次は御幣をつけたおかめの面を本堂に飾り、彼女を偲んだ。
ーーう、う、嘘だと言ってほしい。
この物語を読み終えたときの私の驚きといったらなかった。死ぬ!? 死ぬ必要ある!? とりわけ「女の助言で仕事を成功させたことが夫の不名誉になる」という世界観を理解しようとすると、全身から混乱の汗が吹き出る。すんなり納得するには私は現代に暮らしすぎている。
え、これって、美談なの?
鎌倉時代の夫婦の逸話をもとにしたという「おかめ伝説」は、現在も京都の大報恩寺に伝わり、内助の功、ひいては夫婦円満の美談として受け継がれている。確かに二人の間に強い絆があることはわかる。
ただ、これは本当に完璧な美談なのか? という疑問がどうしてもぬぐえない。おかめと高次は夫婦という関係のロールモデルになり得るのだろうか。
彼女の死には言いようのない違和感がある。なにかが決定的にわからないような、どこかが圧倒的におかしいような気がする。他人の死についてあれこれ詮索するのはとても下品だ。だけど私は彼女の死を想像し、この違和感の正体を突き止めたい。
死が生きている人間全てに訪れるものだということはもちろん理解できる。人は自ら命を絶つことがあるということも、受け入れがたい気持ちをよそへ置けば理解できる。名誉や尊厳のために命を使ったり、愛する人のために自分を犠牲にするということだって、自分の身に置き換えて考えるとありえないとは言いきれない。