自分、妻、息子に目を向けて
ついに、心臓が悲鳴をあげた。狭心症の発作を起こし、入院。血管の詰まった箇所をふくらませる手術を行った。
そのときばかりは、日ごろ遠慮がちな母・智恵子さんや妻・裕紀子さんも相談を減らしてはどうかと言った。しかし根本さんは、首をタテには振らなかった。
次第に考えが変わっていったのは、今年5歳になる息子、徹平君のことも考えた結果だ。
「とにかく忙しくて、父親らしいことはあまりできていなかったのでね。女房から、子どもには言葉で言っても理解できないから、背中で教えてねと言われていました。でも長く生きなければ、伝えたくても伝えられない。人のことを気にかけるのはいいけど、それに家族を付き合わせているわけで、そこは反省しなければいけないと思いました」
修行時代、老師と交わした会話を思い出したのかもしれない。根本さんは老師に尋ねたことがある。「修行を積むことで人を救えるのか。救えないのなら、仏教は何のためにあるのか」と。老師は答えた。「人を救おうといっても、ひとりを救うことは大変なのだ」
座禅をしつつ老師の言葉の真意を考えていると、わかったことがあった。「ひとりを救う」のひとりとは、「私」のことではないのか、と。
「相手とともに自分も救われなければ、本当の救いではない」
言い換えれば、自分が救われていなければ、本当の救いにはなっていないのである。