福岡出身の川原社長は1964年生まれ。
幼い頃から歌唱の勉強をしており、歌手を目指して1983年に上京した。知人の講談師が、当時人気だった漫才師「Wけんじ」の付き人兼前座歌手となり、その後弟子入り。全国のイベントで司会を務め、漫談や歌を披露していた。
昔からラーメンが好きで、福岡でよく食べていたという。福岡といえば博多豚骨ラーメン。川原氏にとって、「ラーメンとは豚骨ラーメン」だった。18歳の頃、豚骨ラーメンの食べすぎで体調を悪くしたことがあるぐらいだ。
東京に来て醤油ラーメンを食べてみたものの口に合わず、豚骨ラーメンを出すお店もいくつかあったが、いわゆる博多豚骨のような濃厚なラーメンはまったく見つからなかった。
東京に来て初めて出会ったうまいラーメン
ある日、師匠のWけんじを乗せて車を運転していたときだ。板橋区常盤台あたりの環七沿いに大行列を発見した。1軒のラーメン屋だった。
気になったので行列に並び、ラーメンを注文。すると出てきたものは背脂ギトギトのラーメン。このお店の名前は「土佐っ子ラーメン」。川原氏が東京に来て初めて出会ったうまいラーメンだった。
「土佐っ子が受け入れられるなら博多豚骨もいけるはず」
そう考えた川原氏は毎日ラーメンのことばかり考えるようになる。夢にまで出てきたという。
以前は、「ラーメンは好きだがラーメン屋はカッコ悪い」というイメージを持っていた川原氏だったが、行列をさばきながらラーメンを作り続ける、土佐っ子ラーメンの店主がカッコよく見えた。ラーメン屋でもこれだけはやるのはカッコいい。
「歌はいつかできればいい。自分はラーメン屋になるぞ」。そう決心したという。
ペンとメモだけを持って屋台のラーメン屋を訪れ、店主にラーメンの作り方を教えてもらい、あとは実家に帰ってラーメン作りの研究にいそしむ。
豚骨ラーメンのお店はいくつかあったがまだブレイクしていない。本格的な博多豚骨ラーメンを出せば確実に目立つ。「とにかく早く開店したい!」。そんな思いで必死に研究を重ねた。
「先にやるが勝ち」という考えは、川原氏のDNAに刻まれていた。
実は川原氏の大叔父は明太子の発明の親「ふくや」の創業者である。
明太子の先駆者である「ふくや」の飛躍を目の前で見ていた川原氏には、とにかく目立つためには誰より先にやることというポリシーがあったのだ。
ラーメンが完成した後は、物件探し。とにかく場所も目立つところにと考えており、大きい道路である環七は候補の1つだった。
世田谷区羽根木の場所は条件面から一度断っていたが、調べてみると「吉方(きっぽう)」(縁起のいい方位)に位置していることがわかり、再度交渉して出店を決めた。