「夢と現実」の選択に揺さぶられて

 大学に入学して真っ先に向かったのはミステリー研究会。

「ところが足を運んでみると、地下に裸電球がポツンとひとつ灯(とも)るような部屋。まるでオカルト研究会のような部室に恐れをなして退散しました。どこのサークルに入ろうか迷った私は、たまたま学食で隣の席になった女の子と仲よくなり、児童文学のサークルに行くと言うので、ついて行きました」

 これが、ヒット作を何作も生み出した、あつこと児童文学との最初の出会い。

「子どもに紙芝居や絵本を読んだりするサークルなら、やめていましたが、そのサークルは作品作りが中心。くぐり抜けてきたばかりの、多感だった10代の日々を表現する楽しみは、とても新鮮でした

 サークルでは創作集を1年に1度作り、講師の先生を呼んで批評してもらった。

 大学2年のとき創作集の批評会にやって来たのが、のちにあつこを作家として世に出すきっかけを作った児童文学作家・後藤竜二。この会で、「尾川さん(旧姓)の作品、面白いわ」「本気の少女像が伝わってくる」「作品の骨格がしっかりして、読ませることができる」と絶賛された。

「児童文学の最前線で書いている後藤さんから褒められたことは大きな励みになりましたね」

 次々に就職の内定をもらう友達を尻目に、あつこの心は揺れていた。

「出版社の9割は東京にある。なんとしても東京に残りたいという思いもありましたが、就職氷河期の入り口に差しかかり、地元岡山の小学校の臨時教師の口しか見つかりませんでした。“小説家になりたい”という思いがある一方で、“お前になれるわけがない。普通に仕事をして、結婚して子どもを産んだほうがいい”、この2つの考えの間でものすごく揺れました

 しかし、岡山にいても教師になれば長期の休みが取れる。その期間を執筆にあてればいい。そんな一縷(いちる)の望みを抱き、故郷に帰ったあつこを待ち受けていたのは、多忙を極める教師という仕事の現実だった。

大学卒業後、地元・岡山に戻って教師をしていた20代のあさのさん
大学卒業後、地元・岡山に戻って教師をしていた20代のあさのさん
【写真】あさのさんの若い頃、祖母、子どもたちとの写真など

 臨時教師として最初に受け持ったのは、小学2年生。

「1か月もしないうちに、先生になったことを後悔しました。夏休みや冬休みには研修などがあり、とてもじゃないけど小説を書く時間は取れない。

 そして何より子どもたちと本気で向かい合ってくれる人じゃないと、先生にはなっちゃいけないと気がつきました」

 あつこの心配事は的中する。

 翌年受け持った生徒から、「尾川先生、嫌い。いい加減だから」と言われ、青ざめた。

「私なりに頑張っていたし、若い先生として生徒に人気があると思っていただけにショックでしたが、同時に母の顔が浮かびました。亡くなるまで“先生”と言われた母こそ、理想の教師だったんです」

 結局3年で退職。そして25歳のとき、歯科医院を開業する姉の同級生・征大と見合い結婚をした。

「専業主婦となり、これで思う存分小説が書ける。そう思っていたんですが、医院の受付や経理の仕事に追われて。1年後には長男、翌年には次男も生まれ、小説を書くなんて夢のまた夢でした」

 さらに3年後には長女も生まれ、3人の子育てに悪戦苦闘する日々を送る。

「私より若い人が華々しくデビューする姿を見て、私には無理なのかな。子どもにも恵まれ、生活にも困らない。胸の奥ではあきらめてもいいかなという声も聴こえました」