簡単にはとらえられないからこそ

 平成23年『たまゆら』で島清恋愛文学賞を受賞。恋愛小説の分野でも新たな読者を獲得している。

 人の世と山との境界にひっそり暮らす老夫婦。雪の朝、その家を訪れる18歳の少女。山という異界で交錯する2つの愛を見つめたこの物語は、徳島のお遍路道で目にした光景がヒントとなり生まれたという。

「私の書くものはすべて“人間関係”がテーマ。恋愛も人間関係。人が人を恋することにすごく興味がありました。美しい恋物語もいいけれど、もっとドロドロした、従来ある恋愛ではない鉱脈に突き当たるまで掘ってみたいと思い、この作品を書きました」

 まるで呼吸するように書き続け、ジャンルを越えて数多くの作品を生み出してきた。その創作に対するエネルギーは、一体どこからくるのか。

私にもいろんな欲望がありますが、書くことをストップされた世界は、ほかの何よりも荒涼とした気持ちになってしまう。私はまだ書き手としては若い。未熟。チャンスをいただいたら、書ける範囲を広げていきたいという思いが強いんです」

 たくさんの人に読まれる物語を紡いでもなお、自らを未熟と言う。そのストイックさの裏には、こんな野心を秘めている。

「私にとって、この物語を書くために生まれてきたと言える作品を1作でも残して死んでいくのが生きていく意味。自分の寿命をかけて、最高のところまで到達したいという思いはあります」

 いま温めているテーマがあるという。

「今年の夏、岡山を襲った豪雨で、危うくこの街も洪水に見舞われるところでした。それで、震災や台風の被害でギリギリまで追い詰められた人間の物語を“孤立”をモチーフに書いてみたいと。例えば、憎しみ合う夫婦の憎しみがむき出しになったとき、どうなるのか。手を携えなければ生きていけないから信頼は生まれるのか。人間の持つどうしようもないところまで掘り下げると“孤立=破滅”ではない新たな物語が生まれるかもしれません

 64歳になった今も、ますますエネルギッシュに書き続ける。そんなあつこには、1日のうちでいちばん楽しみにしている時間がある。

◇    ◇    ◇

 河会川の辺りを昇り始めた冬の朝日がほんのりと朱色に染めるころ、あつこは愛犬・ララを連れて散歩に出た。欠かすことのない日課。

散歩の時間、近所の河原沿いを歩いているとさまざまなシーンが浮かんでくるという
散歩の時間、近所の河原沿いを歩いているとさまざまなシーンが浮かんでくるという
【写真】あさのさんの若い頃、祖母、子どもたちとの写真など

 春になると満開の桜並木に包まれ、秋には曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花や秋桜(コスモス)が咲き乱れる川土手の道を歩き、季節の匂いを胸いっぱいに吸い込み風の音に耳を澄ます。

 いつの間にか白い息を吐くララの姿が靄(もや)に包まれていく。大山展望台から見る温泉街は、すでに雲海に沈んでいるに違いない。

 靄が少し薄れ始めると、空を分厚く覆った灰色の雲が突然細長く割れ、そこから目に染みる青い空がのぞく。

─こんなシーンを何度書いてきたことか。

 あつこは、ホッと息を吐くと、今日締め切りを迎える小説の世界に思いを馳せた。

 

(取材・文/島右近 撮影/渡邉智裕)

しま・うこん◎放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、昨年『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。神奈川県葉山町在住