“ビルル”に憧れ初ステージへ
「父がプレゼントしてくれたラジオと蓄音機が部屋にあり、父が置いていったフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードがアメリカとの最初の出会い。やがて、ラジオから流れるレイ・チャールズの『ホワッド・アイ・セイ』を聴き、ゾクゾクするような魔力に魅せられ、もう1回聴きたくて久留米中のレコード店を探し回って手に入れました」
やがて中学3年を迎え、受験勉強の傍らFEN(米軍極東放送)を聴くようになった鮎川は、衝撃を受ける。
「初めてビートルズを耳にしたのがこのFEN。DJが“ビルル”と発音していたので翌日、学校で友達に“お前、知っとうか。あのビルル”と話したところ、隣の席の生徒の弁当を包む新聞紙を見て、そのバンドの名前がビートルズだと知りました(笑)。R&Bよりも若々しく激しくて、心を奪われました」
1964年こそ、ビートルズがイギリス、アメリカはもとより、全世界を席巻する記念すべき年。この歴史的な年を最も多感な年ごろに迎えることができたことを、鮎川は今でも感謝している。
その一方で勉強にも身を入れていたと話すのが、幼なじみの操寿三郎さん。
「マコちゃんの家に遊びに行って偶然、机の中にしまってあった成績表を見たら800人以上いる生徒の中で成績が1番。でも、そんなことを鼻にかけることもありませんでした」
名門・県立明善高校に進学した鮎川は、ここで本格的にギターを手にする。
「友達に誘われて入った新聞部に、エレキギターを弾ける人がいて、放課後は部室にこもってビートルズなどを練習していました」
やがて高2のとき、念願のエレキギターを手に入れる。
「ビートルズのジョージ・ハリスンのギターに似たテスコEP8を4500円で売ってくれるという友達がいて、修学旅行の積立金を“一身上の都合で行けない”と偽って返してもらい手に入れました」
そんな鮎川に初めてステージに立つチャンスが巡ってきたのは、高校3年の夏だった。
「本屋で音楽雑誌を立ち読みしていたら、操君が“マコちゃん、俺ドラム叩きよるんや。今から練習に行くけど、見に来んね”と声をかけてきて、行ってみると駄菓子屋の離れの納屋が秘密のスタジオやった。その日初めて会った誰かもわからない人と即興で音楽ができあがっていく。まるでマジックみたいやったね」
と当時の状況を振り返る。
しかしもっと驚いたのは操さんたちバンドのメンバー。鮎川のギターの腕前に驚き、この日のうちに鮎川はメンバーの一員に迎えられた。
しかも、練習の目的は久留米市内の石橋文化ホールで行われる『サマービート66 エレキ祭り』に出演することと聞き、鮎川の胸は高鳴った。
「『ロックンロール・ミュージック』から始まるセットリストは、ビートルズの来日公演とほぼ一緒。“エレキは不良”といわれた時代に風穴をあける画期的なライブ。ものすごくドキドキしたのを覚えています」
同じステージに立った幼なじみの操寿三郎さんは、
「目の前にプールと観覧席があり、マコちゃんの中高の友達が100人以上も勢ぞろいして見守っていました。当時から人気がありましたね」