宮古市でスポーツ用品店を営む志賀鉄太郎さん(48)は、
「非常に楽しみです」
と満面を通り越し全身に笑みという喜びよう。釜石で行われる試合は家族4人で観戦する予定だ。だが、当初は違った思いだったという。
「大会後の維持管理・運営を考えると、被災地で打ち上げ花火をあげていいのかな、と。複雑な心境でした。でも決まったからには100パーセント応援しようと思いました」
釜石市はかつて“ラグビーの町”として、その名を日本全国にとどろかせた。1978年から日本選手権7連覇を達成した新日鐵釜石ラグビー部が、“北の鉄人”として日本ラグビー界に君臨していたからだ。同部は'01年にクラブチーム「釜石シーウェイブス」に生まれ変わり、今も町のシンボルになっている。
その「北の鉄人」のOBが、東日本大震災直後、まず動いた。元日本代表の松尾雄二氏、石山次郎氏らが都内で復興支援団体「スクラム釜石」を立ち上げたのだ。8年後('19年)に開催されることが決定していたW杯日本大会の試合会場に釜石を! 実質的にそういう名乗りだった。
目標が欲しかった
同じOBでも、現役引退後も地元で暮らしてきた氏家靖男さん(63)の受け止め方は、少し違ったという。
「多くの人が財産を失い、人もたくさん亡くなりました。あれだけの被害状況を見て、釜石市でW杯を開催するということを地元の人間たちは考えもしませんでした」
「スクラム釜石」に呼応するように、釜石市でも声があがった。その朗らかな声の主は、鵜住居で旅館「宝来館」を営む岩崎昭子さん(62)。
「'11年のゴールデンウイークのとき、県のラグビー推進室にいる佐々和憲さんが、“おかみさん、'19年にはラグビーW杯があるから、釜石にもいろんな人が訪ねて来てくれるよ”って私に言ってきたんです。そのとき“それだったら釜石でやってけれ”って言っちゃったんですよね。
あのころは、希望が、夢が、目標が欲しかった。それでポロッと言っただけだったんですよ」
その後も釜石市関係者の会合などでラグビーの話になると「希望が欲しい」と言い続けたという岩崎さん。
「W杯が実現するしないじゃなく、何か目標が欲しかったんです。家族を失ったり、どん底にいるみなさんに対し、明日のことを言っていいのかという思いは確かにありました。でも生きるためには明日があるよ、希望があるよ、と思えることが必要でした」
声は波紋を描き、少しずつ周囲に広がっていく。そして、「ラグビーはパスをつなげるスポーツ。私たちも希望というボールをパスし合ってきた。たどってきた過程はまさにラグビーでした」(前出・岩崎さん)