土屋さんと同じ年に横浜市の給食職員となった友人の関戸春江さん(77)が言う。
「私たちのころは、給食室の室温が42~43度。暑くて着ているTシャツを5回も6回も着替えるような状態でも、ホコリが入るから窓も開けられません。そんな地獄のような暑さの職場に大病をして復帰して、少しでも余裕があれば、いろいろなことに挑戦するのが土屋さん。若いときから踊りにも挑戦して、師匠の資格も持っているんですよ」
ようやっと戻れたいつもの生活。ハードでも、やりがいある毎日。ところが……。
なかなか出せなかった離婚届
「入院して女房が(家に)いないじゃない。やっぱ寂しいんでしょう、男の人って……」
ご主人の進一さんとの仲がぎくしゃくし始めたのだ。
昭和33(1958)年、土屋さん21歳のときに結婚した進一さんは、花嫁の両親のほうが惚れ込んで結婚をすすめたという人だった。
「優しい人でね……。息子が病気をして鼻が詰まったときには、口で吸ってくれるような人だったんです。母親だってできないよ、こんなこと」
そんな夫に、女性の影がちらつき始めたのだ。
「別れるなんてとんでもない。いい女性がいて私と口をきくのもいやならば、1階と2階で別々の生活をして、私が夫のいる2階にお料理を作って持っていくって。そういってメモを置いてもダメだった。私、何か月、手元に持っていたかなあ……離婚届をね」
次男の誠さんが言う。
「あとあとになって本音の部分を聞いたことには、“自分が病気のときにそんなことをしたのが許せなかった”と。
3つ離れた兄と自分が成人というか物心つくまでは、別れたくなかったということは、直接おふくろから聞きましたね。18歳ぐらいのときかなあ、オヤジも交えて、何回か家族会議をしたのを覚えています」
結局、進一さんが家を出るかたちで昭和62(1987)年に離婚した。
土屋さんが、しみじみと振り返る。
「年を重ねることで私が強くなりすぎていたのかな……」
病気や不仲を喜ぶ人はいない。だが、こうした不運こそが、人を成長させるものなのだ。年を重ね、病に見舞われることで強くなりすぎたのではなく、人として成長し、自立できたからこその離婚であった。
そしてこうした不運は、ときに人生の次の扉を押し開ける機会をももたらす。
身も心もボロボロになった土屋さんにもたらされたもの。
それこそが、落語であった。
「主治医に“脳の活性化のために何かやったほうがいい”と言われて。そうしたらちょうど横浜市職員の落語の会があるのを知って。それで見に行ったんです」
ズタズタになった心が、なにか楽しいことを求めていたのかもしれない。