やがて一家は茨城県にできた日本中央競馬会の調教拠点の美浦トレーニングセンター(以下、トレセン)に引っ越した。実子の次男も生まれ、吉永さんの実母も近くに移り住む。幼いころから気難しく気性の荒い母親の顔色ばかりを窺ってきたが、今度は母親と自分の家族との間で神経をすり減らした。吉永さんは当時をこう振り返る。
「母は“純正の孫だけと暮らしたい、あんたたちさえいなかったら、私はもっと幸せだったのに”と平気で娘たちに言う始末で。だから赤ん坊を母に預けて、私は上の3人の側についてバランスを保つしかありませんでした。子どもたちもよくそこのところについてきてくれたと思います」
正人さんが出るレースになると、そのときばかりは実母もテレビの前に陣取り、家族全員で声援を送った。'82年、正人さんが天皇賞を制したときのことを悦子さんが思い返す。
「レースの最中にいちばん下の弟がオムツに大きいほうをしたんですが、“ウンが落ちるから”と取り換えないままで(笑)、後ろから馬が来ないようにひとりがテレビ画面を押さえたりして、“イケーー!!”と、みんなで叫んでました。母がいちばん大きな声を張り上げていましたよ」
執筆活動、再び
週に1度はトレセンの仲間が30人ほど吉永家に集まり食事会をしたという。
「大人も子どもも和気あいあいと。父は黙って飲みながらみんなの話を聞いて、母と母の友達たちが盛り上げていましたね。おばあちゃんはその会も面白く思っていなくて、ご飯を食べたら弟を隣の部屋に連れていってましたが(笑)。ほかの家とは違う苦労もありましたが楽しい思い出がたくさん残っています」
日本中央競馬会の機関誌『優駿』のコンテストで初エッセイが最優秀賞を獲ったことをきっかけに吉永さんは再び執筆活動を始めた。'85年、自らの競馬との出会いと正人さんが主戦騎手を務めたミスターシービーが中央競馬史上3頭目の三冠馬となるまでを描いた自伝『気がつけば騎手の女房』(草思社)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。
テレビ番組のディレクターで当時、担当していた番組『こんにちは2時』(テレビ朝日系)の取材で吉永さんの自宅を訪ねたという坂本美恵子さんが振り返る。
「大宅賞を獲った直後で、そのときはまだ物書きというより、4人の子どもと実母に関わる普通のお母さんという感じでした。
吉永さんは子どもを思う気持ちや他人に対する情が厚くて、手を抜かずに人を愛する人なんですよ。その当時と今を比べると、テレビでのコメント力が増したという違いはありますが、それ以外の人間的なものはまったく変わっていないと思います」