田中選手のトレーナーを務める父・斉(ひとし)さんも、幼少期にペルテス病に罹患し、2年以上、闘病した経験がある。
「自身の体験があったからこそ、父は僕に厳しい練習を課していたところもあったと思います。母は静かに見守ってくれる人で、僕の意思を尊重して口をはさむようなことはしませんでした。でも、後から聞けば無理をさせたくなかったようで、そうとう心配していたみたいです。父の厳しさと母の優しさに支えられたところが大きかった」
日々の研鑽が功を奏したのか、発症から約2年後には後遺症もなくほぼ完治し、元の生活に戻ることができた。このときの経験は、田中選手の“土台”になったという。
「“頑張る基準”を教えてくれたような気がします。父は仕事の傍ら、僕の練習に毎日付き合い、母は生活に支障をきたさないように常にサポートしてくれた。子ども心に、“自分のために時間を使ってくれている”と思っていました。今の僕があるのは、あのときの闘病の日々があったからだと思います」
小学5年生のとき、空手の練習の一環として始めたボクシングにすっかり魅せられた田中選手。その後、ボクシングに専念するとメキメキと頭角を現し、才能を開花させる。中京高校時代には国体2連覇、インターハイ優勝、高校4冠に輝くなど、いつしか“中京の怪物”と呼ばれるように。
「高校2年生のときに、誰に相談するでもなく自分でプロになる決意をしました。父は喜んでいましたが、母は複雑だったんでしょうね。ボクサーは選手寿命も長くないですから、“大学には行ってほしい”なんて話もされました」
高校3年生でプロデビューを飾るや、強豪相手に2連勝。卒業時には、WBA世界ミニマム級14位にランクされ、大型ホープとして期待を集める。が、田中選手は意外な決断を下す。なんと、プロボクサーでありながら中京大学経済学部に進学したのだ。
自問自答しながらも、ボクシングと学業を見事両立
「本当は保険をかけたくなかったので、プロ1本で勝負したかった」と告白する一方で、「収入も保証もないのに、やりたいからとボクシングだけをするのは、虫がよすぎるんじゃないのか」と続ける。
「学費は自分のファイトマネーで払うこと。実績を積み上げ、卒業時にボクサーとしての地位を確立していること。経済的にも自立していること……。しっかりと目標を掲げ、それらが達成できていればプロとして、社会人としてやっていけるのではないかと考えました。万が一、自分に実力がなかった場合、ダラダラと続けてしまう可能性だってある。なので、自分も家族も、大学の“4年間”を区切りとして判断したんです」
当初は、通いながらも時間を無駄にしているのではないかと自問自答した大学生活だったが、「今となっては行ってよかった」と笑う。
「大学2年生のときに、WBO世界ミニマム級のチャンピオンになったのですが、いざキャンパスに行っても誰も関心を持っていなかった(笑)。自分の中では結構すごいことをしたつもりだったんですけど、1歩外に出ると“まだまだ自分はこの程度なんだな”って。ひたすらやり続けるしかないと気づかせてくれた。それに気の合う同世代の友人に恵まれましたし、家族やボクシング仲間とはまた違う支えになりましたね」
1年間こそ留年するも、3月に大学を卒業。在学中に3階級制覇を達成するなど、十分すぎる実績を残し、4月から新社会人として新たなボクサー人生を迎えている。
「いろいろな支えがあって走り続けてこられたので、すべてに報いたい。特に、家族には。僕は、家族って特別な存在ではなく、ごくごく普通の存在だと思うんです。いつもと変わらない光景が広がっているから心が落ち着く」
そんな田中選手には、家族から「会長」と呼ばれるひと回り年下の妹がいる。チャンピオンに「お前なら勝てる!」と檄を飛ばす姿は、日常茶飯事の光景なのだとか。
「3月に行われた初防衛戦後、フラフラになって控室に戻ると、声援を送り続けて疲れたらしく妹が横たわっていました。“お前が寝るんかい!”って笑っちゃいました」
若干23歳。5階級制覇を含めて夢は広がるが、本人は闘病時からいつも地に足をつけて走り続けている。
「ペルテス病のときに、やり通す大切さを知り、大学では“やりたいこと(ボクシング)”と、単位取得やテストなど“やらなければいけないこと”は違うと学びました。本音を言えば、チヤホヤされたいし、名誉やお金だって欲しい。でも、これまでの経験からか、どこか調子に乗せない自分がいるんですよね。
やらなければいけないことをやり続けた先に自ずと望むものがあると思うんです。今はもっと強くなることだけを考えて練習に励みたい。これを機に、僕のことを知っていただけたらうれしいですね。応援よろしくお願いします!」