「両陛下のご結婚25年の際に、美智子さまの弟・正田修さんにインタビューをさせていただきました。そのときには“お茶目で人が集まってくる姉貴だった”“英語の家庭教師をやってもらいました”と、おっしゃったあとに“あ、やっていただきました”と言い直したので、そのまま使わせていただきました。
さらに修さんは“当時の自分はまだ高校生で何もわかりませんでしたが、時がたつにつれて、ご成婚のころの両親は大変だったろうなと思っています”という言葉が印象的でした」
皇太子妃になられた美智子さまはたちまち、日本女性の憧れの的に。特に、美智子さまの「ファッション」に対して、世の女性はくぎづけだったという。
「美智子さまがお召しになっていた洋服がデパートに並ぶと、すぐに大人気になって。
銀座のデパートには葉山の御用邸で美智子さまがお召しになったワンピースが『三愛』や『三越』、『松屋』に並びました。値段は9500円から1万2000円('68年の大卒初任給は約3万円)。私たちはみな、給料袋を持ってデパートに駆けつけましたよ(笑)。
'70年代には『イヴ・サンローラン』が働く女性にスーツを提唱し、世界的に流行しました。美智子さまは軽井沢で静養された折、白のジャケットにグレーのパンツスーツというスタイル……。
紀宮さまを抱っこ、礼宮さまの手をつながれ、その後ろから浩宮さまがついて行く姿を見て、子育てのときにもさりげなく流行を取り入れていらっしゃる美智子さまのおしゃれは素敵でした」
皇太子妃時代には、東宮御所にキッチンを備え、お子さま方に手料理を振る舞われていた美智子さま。
「高校と大学時代の美智子さまは、石黒勝代先生の料理教室に通われていました。その際に学ばれたフランスの家庭料理であるビーフストロガノフやカレーは、お得意のレパートリーです。
東宮仮御所の前田青邨『紅白梅』
実は、美智子さまが浩宮さまをご懐妊でつわりのときに、その料理教室のあるグループが特別においしく作ったコンソメスープをお届けしました。
偶然にも、そのグループの中に私の幼稚園時代の友達、酒井恵美子ちゃんがいて“みどりちゃんもご一緒に”とお誘いいただいて、私も一緒に渋谷の東宮仮御所について行ったことがありましたね。
美智子さまの手料理を陛下は“おいしい、おいしい”とおっしゃるそうで、美智子さまは石黒先生に感謝の手紙を出されたこともあったのです」
このとき以外にも、テレビ局員時代にお住まいを見る機会があった。
「皇太子さま(当時)が公務で地方に行かれていると、御所には留守番をする侍従がいるのです。その方とお話ししていて、お部屋を見せてもらったことがありました。
東宮仮御所の応接間には2丈ほどの大きな絵が飾られていました。それは、中央に小さな鳥が2羽と、満開の梅が描かれている前田青邨さんの『紅白梅』という絵でした。
実は、美智子さまはこの絵をモチーフにした着物を京都へ注文なさいました。即位のときの園遊会でも、梅のお召し物をご着用になっていて、“梅”がお好きなのだと思いますよ」
“国民とともに”ある皇室をいちばん強く感じられたのは、赤坂御用地の除草や清掃をする「勤労奉仕団」とのやりとりだったという。
「そのときは、勤労奉仕団の方々と一緒に、私も割烹着と手ぬぐいをつけ、長靴をはいて草むしりをしていました。すると、美智子さまが3歳くらいの浩宮さまと一緒に“ご苦労さまです”と、ご会釈においでになりました。
美智子さまが挨拶された後に“ナルちゃん、ご挨拶は?”と話しかけられると、よちよちと3歩くらい前に出た浩宮さまが“ごきげんよ~”と、お辞儀されたのです。“よ~”の部分だけ10秒ほど伸ばされていて、奉仕団のおばさま方は“かわいい!”と、とても盛り上がって。それを目の当たりにした私は“国民とともにある皇室とは、こういうことなんだろうな”と感動しました」
美智子さまが皇室入りされてから60年、ずっと追い続けてきた渡邉さんにとって、美智子さまとは─。
「私にとって美智子さまは“女性学の主人公”なんです。史上初の民間出身妃というだけではなく、皇后陛下になられてからも、いつも素敵でご立派で。上皇后となられる美智子さまは“経験の継承”をされた江戸期の女性天皇・後桜町院のイメージと重なります。
沖縄の“火炎瓶事件”や山形県のべにばな国体での“発煙筒事件”でも陛下をかばわれるなど、本当に素晴らしいお方だと思いますし、お疲れさまでしたとお伝えしたいですね」