田口恵美子さんが続ける。
「彼女は、働く姿、もっと言えば生きる姿を見せながら、周りの気持ちを動かしていったんです。例えば、広報という立場上、選手と一緒に球団バスで移動します。そのときも、見送る女性ファンの気持ちを逆なでしないよう、バスの通路にしゃがんで姿を消していました。そういう地道な努力のひとつひとつが、周りの見る目を変えていったんですね」
入社から数か月、いつものように選手に業務連絡を無視されていると、リーダー格の門田博光選手が言った。
「もうやめたれ。こいつ、がんばってるやんけ」
そのころからだ。周りの態度が変わっていった。
「ありがたくて、とにかく期待を裏切らないよう、無我夢中で働きました。それこそ1年の360日を仕事するほどに。疲れなんか感じなかった。若かったし、何より、充実していたので」
1991年には、あのイチロー選手がドラフト4位で入団。若手の成長も見守った。
結婚、そして出戻りで針のむしろ
駆け抜けるように働くこと3年半。やがて、太田垣さんは退職の道を選んだ。
「やれることをすべてやって、完全燃焼したこともあるけど、親の結婚プレッシャーが、すごかったんです」
そう、太田垣さんは由緒正しきお嬢様。太田垣家の娘は、「適齢期に見合い結婚する」という、厳しいしきたりがあったのだ。
「親元から逃げ出したくて選んだ相手だから、目が曇って、結婚に失敗しちゃった。もう20年以上も昔の話になるんですね」
とっくに気持ちにケリがついているのだろう。あっけらかんと話す。
26歳で、病院経営者と見合い結婚したものの、夫の女性問題と借金が発覚し、わずか3年半で離婚。生後6か月の長男を連れて戻った実家は、針のむしろだったと振り返る。
「出戻りなんて許されない家風なので、“近所に顔向けができない”“一族の恥さらし”と、母や嫁いだ姉にまで、嘆かれました。このとき、腹をくくったんです。どうせ異端児なら、しきたりに縛られず、自由に生きていこうと」
そのためにも、必要なのは、子どもを育て上げる経済力。
何か資格を取ろうと考えていた矢先、離婚裁判で世話になった女性弁護士の「司法書士なんかいいんじゃない」、の言葉に心が動いた。
司法書士の国家試験は、合格率2~3%の超難関。
「貯金をはたいて、予備校の費用を入金してから知った」というあたりが猪突猛進の太田垣さんらしい。