涙は自分へのご褒美
都内の公園で行われた訓練の様子を見せてもらった。
「待て! 待てだよ」
犬たちが騒ぎ始めると、松尾さんは低く鋭い声で一喝した。見知らぬ犬に向かってワンワンと吠えたて、グルグルと動き回っていた犬たちが、ピタリと動きを止めて松尾さんを見る。
「そうだよー。いい子だね」
一転して、高くやさしい声で大げさなくらいにほめる。犬たちの首筋をなでると、落ち着きを取り戻した。
ペキニーズのプルート(4歳=オス)とカロン(2歳=オス)を連れてきた坂本さん。プルートはイヤイヤがひどく散歩に連れて行っても歩かず、人をかむ癖もあった。3年前から保育園と出張訓練の両方で指導を受けている。
「ペキニーズは言うことを聞かないことで有名ですから、あきらめていたんです。それが初めて松尾先生のところに連れて行った日に、ちゃんとお座りして、先生とアイコンタクトとって。全然うちの子じゃないみたいでビックリしました(笑)」
ウエルシュコーギーのメロン(8歳=メス)は訓練歴1年。飼い主の亀井さんに聞くと、メロンは人間が大好きで犬が嫌い。ほかの犬が近くに来るだけで、ひどく吠えた。「お座り」や「待て」はできるのに、「伏せ」ができないのも悩みだったという。
「うちは4匹いたんですが、どの子も伏せだけはできなくて。ネットでやり方を検索していろいろやらせてみたんですがダメで。でも、先生に絶対にできるからと言われて訓練を続けていたら、初めて、できるようになったんですよ」
松尾さんによると伏せは服従訓練の基本で、伏せができると落ち着いた犬になり、ほかの指示にも従えるようになっていくのだという。
田中さんは柴犬のダイズ(5歳=オス)を飼って3日後に松尾さんに依頼し、一からしつけてもらった。
「訓練をすると知恵もつくので、気に食わないと甘がみしたりして、心が折れそうになりました。でも今は性格も穏やかになって、かまないし、吠えないし、私の横をしっかりついて歩けるし。ドッグカフェに行っても伏せの状態で静かにしていられるので、何ひとつ文句はありません」
松尾さんの仕事は犬を訓練するだけではない。飼い主にも、犬への指示の出し方やほめ方、叱り方など細かに教えて、覚えてもらう。
将来的には、しつけ方を学んだ飼い主に運転免許証のような証明書を渡す仕組みを作りたいと夢を語る。運転するには免許が必要なように、犬の飼い主みんなに訓練を受けてほしいと考えているからだ。
「家庭犬の訓練も人助けだと思ってやっています。愛犬が言うことを聞かなくて、心を病んでしまう飼い主さんもたくさんいますから。
以前と違うのは、今はふとした瞬間に涙が出ることがあるんです。訓練所を閉めてホッとしたのもあるし、私がやってきたことをみんなに伝えることができた。これでよかったんだ、よく頑張ったなと、涙は自分へのご褒美かもしれないですね」
ストイックで熱い、現代のサムライの挑戦は、まだまだ続く─。
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ)大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。