包丁を抱いて寝ていた

 浜野はそんな苦悩から逃れるように映画館に通った。邦画よりヨーロッパ映画が好きだった。

「日本の映画で描かれる女性像って、耐え忍ぶ妻、無償の愛で包む母、父親の言いなりの娘、愛人という名の悪女。こういうステレオタイプばかり。見ていて苦痛なんですよね。フランス映画には、キャリアを持ち、ふたりの男に愛される女がいる。そのほうがカッコいいと思った」

 これが浜野映画の根幹でもある。

 彼女は当時の思いを一貫して映画で表現している。それがピンク映画であれ一般映画であれ。男目線ではなく、女目線、もっといえば「自分目線」で映画を撮りたい。夢は広がった。そんな浜野を、母は「自分のような苦労をしないためにも、一生をかけてやれる仕事を持ちなさい」と応援してくれた。

 それでも母が心配するからと、上京後は寮のある東京写真専門学院に入学、8ミリや16ミリフィルムで自主映画を撮ることが楽しくてたまらなかった。なんとか映画の道に入りたかったが、当時の映画会社の就職条件は「大卒、男子」のみ。映画関係を探し回り、独立プロの若松プロダクションの門を叩く。

 当時、若松孝二監督は反体制を旗印に性と暴力を描き、「ピンク映画界の黒澤明」と呼ばれて若者に圧倒的人気があった。そこへ、ピンク映画を見たこともないまま飛び込んで行ったのである。当然のことながら門前払いを食わされた。それでも浜野は諦めなかった。何度追い返されても通いつめ、いつしか事務所の掃除などを手伝うようになって3か月ほどたったころ、ついに若松監督が根負けしたのか、末端の助監督として現場に出してもらえることになる。

『ピンク映画』は3日間、夜通しで撮影と編集を行うハードスケジュール
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 だがロケ初日の夜、主演女優と主演男優が、疲れ果てて眠っている浜野の横でプライベートでセックスを始めた。やめてほしいと頼むと、翌日、「助監督ふぜいが役者に意見をした」と大問題に発展。浜野は現場を飛び出して会社に戻るが、悪いのは浜野だということになり、勢いで若松プロを辞めてしまう。

「怒られるのはかまわない。いくら怒鳴られても現場からは逃げない。だけど私に謝れというのは筋が違う」

 それが浜野の言い分である。その後、浜野はフリーの助監督としてあちこちの現場を転々とする。ピンク映画は今も昔も低予算だ。小道具などは買えないので、浜野は工夫して手作りしたり、走り回って安く手に入れたりした。それが重宝されて助監督の仕事は途切れなかった。

「セクハラパワハラは当たり前。酔っ払ったスタッフに襲われないよう包丁を抱いて寝たこともありますよ(笑)。男と同じようにがんばって男を超えるしか女が映画の世界で生き残る方法はないと思っていた。だから男に負けないよう一升瓶をラッパ飲みしたり、男と一緒に立ち小便をしたこともある」

 浜野は強い口調でそう言ってから、ふっと笑った。

「私は女を売るようなことはしてこなかったし、女であることに甘えたりもしなかった。だけど今思うと、女のままで女の監督になればよかっただけのこと。ただ、当時はがむしゃらに男になることしか方法がなかったんです」