浜野が「私のオンナ」とまで言う母は、30年ほど前に急逝した。娘の一般映画を見ることはなかった。まぶたが痙攣するのを治すための「簡単な手術」の最中、脳幹出血を起こして脳死状態となったのだ。

舌でふれた「永遠の女」

「3週間たって、布団をめくったら手足の指先が明らかに干からびてきている。しのびなくてね、医者に“もういいです”と言いました。ただ、延命装置は私がはずす、と。そうでなかったらおふくろも死ぬに死ねないはずだから」

母に後ろから抱き寄せられる10歳の浜野と叔母
母に後ろから抱き寄せられる10歳の浜野と叔母
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 それでも母の死を受け止められなかった浜野は、解剖してほしい、それが無理ならせめて脳を見せろと医者に詰め寄った。

「脳死というわりに運ばれてきた脳はきれいなピンク色だった。医者の目を盗んで舐めちゃった」

 浜野はそう言って満面の笑みを浮かべた。それは、やりたいことをやった人だけが見せる表情そのものだった。

 さらに通夜の晩、酒を飲み続け、親戚がいなくなった隙に、棺の母の経帷子の裾を割った。

「母のおまんこを見たかった。きれいでしたよ。そこも舐めた。ぷくっと柔らかかった。味はしなかったけどね」

 今、10代のころ母と住んでいた静岡の家に浜野は生活の拠点を置く。都内に仕事場として部屋を借りて行き来しているのだが、そのたびにどうして若いころ、もっと静岡に帰らなかったのだろう、こんなに近いのにと後悔の念が疼くという。ついに母との遠慮の溝は埋まらなかった。だが、母は彼女にとって「永遠の女」である。

「父が眠る徳島のお墓に埋葬したんですが、あちらの習慣では喉仏だけを納骨するんですよ。他の骨は廃棄なの。捨てるなんて耐えられないから私が持って帰った。私が死んだら棺の中に母の遺骨や遺灰も一緒に入れて焼いてほしいと夫に頼んでいるんです。それでやっと母と一体になれるんじゃないかと思って……」

 その日が来るまで、浜野は今日も映画への情熱とともに走り続ける。

映画を撮るたび、家を担保に借金したり、夫の保険を解約したり、資金の面では本当に大変なんだけど、それでも映画を撮り続けたい。撮れなくなったら私が生きている意味なんてないとさえ思っています」


取材・文/亀山早苗 かめやまさなえ  1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。歌舞伎、文楽、落語、オペラなど“ナマ”の舞台を愛する