恩返しのつもりでジェッツへ
肩の荷が下りた途端、夫は「旅に出てもいいかな?」と言い出した。
「私自身も下の娘が生まれてすぐ立ち上げたフラダンス教室が忙しくて、主人には好きなことをしてもらってもいいかなと思いました。ただ“娘の参観日と運動会には帰ってきてね”と条件をつけました」
島田はハルの売却前にコンサルティング会社・リカオンを設立していたが、会社は休眠状態のまま、夢とロマンを追い求めてバックパッカーのように世界中を旅するようになった。数か月に1度は帰国し、また旅に出る生活。「長年の夢に一歩近づけた」と喜んだが、妻との約束は必ず守った。2人の娘が赤ん坊だったころは夜泣きをすれば進んで抱きしめ、車に乗せて海までドライブに出かけ、動物園や遊園地に連れて行くなど、幼いころから惜しみなく愛情を注いできたからだ。
次女は父親とモンゴル2人旅に出かけた際のエピソードを明かす。
「小4の夏、悠々自適だった父とウランバートル近郊で遊牧民と一緒に暮らす体験をしました。いろんな景色を見せながら、モンゴルの歴史や地理、チンギスハンの話など、まるでマンツーマンのツアーコンダクターみたいに逐一、説明してくれました(笑)。父は真正面から向き合ってくれる人。2人だけで2時間くらい進路相談したこともある。いつも親身になってくれます」
家族第一の島田は3人の意向も酌んで2011年3月の東日本大震災直後に福岡へ転居。妻は新天地でフラダンス教室を開き、娘たちも転校。島田も旅を通じて知り合った九州在住の仲間たちと新たな事業を画策していた。
ウエストシップ時代からの恩人で、夫妻の結婚式の仲人も務めた船橋外科病院の理事長・道永幸治から予期せぬ打診を受けたのは、新生活が軌道に乗り始めたころだ。
「私が会長になっているバスケットボールチーム『千葉ジェッツ』が大変なので、暇なら手伝ってもらえないか」
青天の霹靂だったが、「そろそろ旅人をやめる潮時かな」という思いもあり、「恩返しのつもりで手伝おう」と2011年11月から週1回ペースで福岡から船橋へ通うようになった。だが、会社は殺伐とした雰囲気で、金も気力もない状態だった。島田は「立て直しはかなり厳しい」と痛感。コンサルタントの立場で40ページに及ぶリストラ計画書を提出してフェードアウトしようと考えていた。
ところが道永会長から「社長をやってくれ」と、まさかの打診を受けた。最初は乗り気でなかったが、バスケ愛あふれるスタッフの必死の頑張りを見て「存続させなきゃいけない」と責任感が強まった。旧経営陣との厳しい交渉を経て2012年2月、正式に社長に納まった。
「初年度から黒字にならないならやめる。黒字にしてみんながハッピーになれる会社にしたいから、ついてきてくれ」
こう宣言した島田はスタッフ全員と1対1で面談。会社の問題点を洗い出すところから始めた。前出の小林さんは抱えていた不満を吐き出した1時間超の話し合いを今もよく覚えている。
「選手たち現場と会社の相互理解が薄く、ぶつかることが多い実情をストレートに伝えました。島田さんの発言で印象に残っているのは“人を憎まず、仕組みを憎め”ということ。“何かあったら私に言ってくれ”という言葉も響きました。その後は1つの業務に専念できるようになり、仕事がやりやすくなりましたね」