祖母、そして実父の死
甥にあたる加藤とひばりの間に養子縁組が法的に成立したのは、加藤が7歳のとき。玉川学園の附属小学校に入学したその年だった。
「学校から帰ったら、ばあちゃんとおふくろが待っていて、ここに座りなさいと。ピンときましたよ。週刊誌もあったし噂も聞いていた。親父とおふくろが姉弟なのはヘンだし。でも、ずっと『ママ』と呼んでいたおふくろから、はっきりと養子だと聞かされて複雑な気持ちにはなりました。部屋に帰って泣いたのは覚えています。悲しかったわけじゃないけど、ヘンな孤独感がありました」
美空ひばりは、時間があれば学校行事にも参加していた。入学式には、加藤とともに電車を乗り継いで学校まで行った。地方へ行くときは、加藤に語りかけるテープを残して行った。交換日記を始めたこともある。母になろうと一生懸命だった大歌手の素顔が見えてくる。
加藤が見ているテレビのアニメなども一緒に見ていた。
「僕に付き合ってくれているのかと思ったら、僕がいなくても『北斗の拳』などをおもしろがって見ていましたね。偏見のない人でした。歌だって、ジャンルに優劣があるとは思っていなかった。パンクロックなども、すすめると聴いていました」
何度も一緒に遊園地に行ったが、1時間でも2時間でもきちんと並んだ。特別扱いを嫌う母だった。
加藤が10歳のとき、美空ひばりにとってもっとも大切なマネージャー兼プロデューサーであった祖母が亡くなる。そして、波乱に満ちた加藤の10代が始まった。
「ばあちゃんが亡くなった2年後、今度は親父が亡くなりました。親父はばあちゃん亡き後、おふくろを支え、自主興行をやろうとがんばっていた。美空ひばりにジャズを歌わせたのは親父です。演歌以外を歌うことにファンのみなさんには葛藤があったと思うけど、親父は明らかに美空ひばりを活性化させましたね」
加藤は父と2日後に焼き肉に行く約束をしていた。体調を崩して入院はしていたが、それほど早く逝ってしまうとは……。まだ42歳の若さだった。すぐ帰宅するようにと学校で言われた加藤は、駅のホームで親子連れを見かけ、緊張の糸が切れて号泣した。
「僕が10歳のころ、クリスマスにふたりでタキシードを着て赤坂のコパカバーナというクラブに行ったことがあるんですよ。連れて行かれたという感じだったし、子どもにはおもしろくない場所だから、僕はすぐに帰ってしまったけど、親父は男同士でそういうところへ行きたかったんでしょうね。大人になってから、いろいろ話したかったなと思うことがあります」
加藤はしんみりとそう話す。さらに2年後、今度はひばりの末弟である武彦さんが亡くなる。同じく42歳だった。
「このころからおふくろは酒量が増えていったんです。母と弟たちに相次いで死なれて、つらかったでしょうね。僕も急に寂しくなった」