今でも忘れない、沈黙の10秒間

 治療は順調に進み、夏には退院できた。そして翌年春の東京ドームこけら落としでの『不死鳥コンサート』が決まるのである。

「僕は無期停学が解けて試験を受けにひと足先に帰京したんですが、テストはまったくできないし、学校をやめてもいいかなと思っていました。夏休み明けに授業をさぼったら職員室に呼び出された。先生たちがずらりと並んで、僕がやめますというのを待っている雰囲気があったんです。なんだか寂しかった。大好きな学校だったのに。それでキレちゃったんですよねえ」

 ごちゃごちゃ言うんじゃねえと叫んで、ポケットからタバコを取りだし教師の目の前で吸いながら、「こんな学校、やめてやらあ」と職員室を出た。生意気でしたねえ、と加藤は含み笑いをする。

 意気揚々と学校を出たものの、さて、母にどう報告するか。駅の公衆電話の前を何往復もしたという。結局、電話できたのは1時間半後だった。

「おふくろは勘のいい人だから、“どうした? 何かあった?”って。学校をやめてきたと言ったら、10秒くらい沈黙がありましたね。次に“で、どうするの?”と。友人とバンドを組んでパンクロックをやっていたので、音楽の勉強をしたいと答えました。“あんたね、学校へ行くより大変よ。最終学歴が中卒じゃ苦労するわよ”と言われました。それでも、最後には“次のことを考えられるなら、いいんじゃない?”と。見ていないようで、おふくろは僕のことを見てくれていたんだなと思いましたね」

 その後、ひばりは体調を崩していく。それなのに翌'88年の東京ドームでの『不死鳥コンサート』は伝説に残るステージとなった。相当、具合が悪かったにもかかわらず、舞台は完璧だった。

体調を崩し始めた1987年、ひばり(50)をエスコートする加藤
体調を崩し始めた1987年、ひばり(50)をエスコートする加藤
【写真】記念館になっている「ひばり邸」

「脚をひきずりながら歩いているおふくろにずっとついていたから、どんなにあのコンサートが大変だったかわかっていました。僕がおふくろの家に来た意味も考えていた。ドームが終わったとき、5万5千人の鳴りやまない拍手が、おふくろを今後も全力で歌に向かわせることにつながると感じました。その瞬間、自分の気持ちがはっきり決まったんです。金髪にしていたのを黒髪に戻し、スーツを買ってある日、おふくろに“手伝わせてください”と頼みました。16歳でした」

 ひばりは泣いて喜び、周囲に「私、この子に任せたから」と宣言した。

 東京ドームで見事な復活を果たしたひばりに、全国からコンサートの依頼が殺到する。放っておいたらひばりは全部、引き受けかねない。だからこそ、加藤は自分が歯止めになるしかないと決意したのだ。それが運命なのかもしれないと思ったという。