瀬古にいい靴を作らなアカン
家族に支えられ、三村はより仕事に精を出した。その過程で絆を深めた選手は少なくなかった。筆頭が瀬古だ。早稲田大学時代に知り合い、'88年のソウル五輪で現役を退くまで10年以上サポートに回ってくれた三村のことを誰よりも慕っていた。中村清監督が当時60代半ばと年齢が大きく離れていたこともあり、年の近い靴職人は兄のような存在だったのだろう。
「大学に入るまで僕は市販のシューズをはいていたんですが、中村清監督に“別注のシューズを作ろう”と提案されて、紹介してくれたのが三村さんでした。第一印象は関西のぶっきらぼうなお兄ちゃん(笑)。三重出身の僕にとっても播州弁はキツく感じますからね。
その後、足型を取ってもらったりして完成した別注のシューズは本当にピッタリきた。三村さんの作ったスパイクでヨーロッパの大会に出て5000mと10000mで勝ち、'78年福岡国際も同じく三村さんのマラソンシューズで優勝したんです。福岡のときは5足くらい試作品をもらって、白と赤のラインのシンプルなデザインのものを選びましたけど、ソールやクッションの感覚もすごくよかった。それ以降、信頼関係がより深まり、ほかのシューズははけなくなった。やっぱり感性が全く違うんですよね」
三村にとっても瀬古は家族に近いものがあった。だからこそ、'80年モスクワ五輪のマラソンで金メダルをとらせたいと切望。彼のバランスのとれた走りと足裏の柔らかさを加味して、スポンジ底の布製の靴を用意していた。ところが、ソ連のアフガニスタン侵攻を受けて日本オリンピック委員会(JOC)はボイコットを決定。金メダルは幻と消えた。
三村はしみじみ悔しさを吐露した。
「本人も言ってますけど、あのとき走っていたら優勝は間違いなかった。瀬古と宗茂・猛兄弟で金銀銅とれた可能性も高かった。金メダルをとっていたらその後の人生も変わっていたやろうし、本当に悔やまれますね」
この悔しさを晴らすべく、瀬古本人は中村監督とともに気持ちを切り替え、'84年ロサンゼルス五輪に向かった。
三村もエスビー食品のニュージーランド合宿に毎年帯同。1か月をともに過ごし、ときには練習にも付き合った。
「いちばんの思い出は、オークランドのドメイン公園でやった5000m×8本のインターバル走。瀬古に“タイムを計ってほしい”と言われ、1本を14分45秒で走り、20分の休憩を挟みつつ8回繰り返すので、10時開始でも終わるのは夕方近くなる。自分も瀬古に付き合って紅茶と食パン1枚で粘りましたね。彼らはそこまで節制して記録を追求していた。トップランナーの地道な努力を見るたび、自分もいい靴を作らなアカンと感じましたね」