選手時代のノムさんは…

「ノムさんは当時22歳。南海で30本ホームランを打ってレギュラーに定着したころ。ひとり身なのに2LDKに住んでいたね。京都の田舎から出てきたばかりで朴訥なあんちゃんだった。

 当時から自分のことを“ワシ”と言って、ボソボソとしゃべっていたね。愚痴っぽいのは昔からで、“ジャイアンツに行ってたら長嶋にも王にも負けなかったのに”とかボヤいていた」(世志、以下同)

'57年、21歳の野村克也さん。この年、南海捕手として本塁打王に輝く
'57年、21歳の野村克也さん。この年、南海捕手として本塁打王に輝く
【写真】ミッチー夫妻&サッチー夫妻の貴重なフォーショット

 2人で飲みに行くことも多かった。

「大阪の街を歩けば“頑張れ、ノム!”って声をかけられていた。南海のスター選手だったからね。ゆっくり飲むために2人で神戸まで行っていた。1日、3~4軒は飲み屋を回っていたかな。

 グラマーな女性が好きで、女の人が接客してくれる店にもよく行ったよ。気前よくご祝儀を渡していたからモテモテだったね

 それ以外は特に贅沢もせず、派手な暮らしぶりではなかったという。

「スポーツの世界だから、心を許せる友達はいなかったようだね。自分みたいなテレビ界の人間のほうが、付き合いやすかったのかも。

 '77年に南海をクビになってロッテに移籍したときは、かなり落ち込んでいた。どん底だったんだろうね。東京に来てからも、浅草にあったウチの事務所によく来ていたよ

 しかし、'99年ごろから野村さんの妻・沙知代さんと世志の妻・浅香光代が大ゲンカ。いわゆる“ミッチー・サッチー騒動”で野村さんと世志も疎遠に。最後まで和解することはできなかった。

 東京で野村さん夫婦が毎日のように通っていたのが、『ホテルニューオータニ』のレストランだった。

監督が最後に食事に来たのは、亡くなる1週間ほど前の2月5日でした。いつものように“こんにちは!”と元気に挨拶をしてくれたんですが……突然亡くなってしまって寂しいですね。ここの食事が本当に好きだったみたいで、最近も2~3日に1回は来ていました」(ホテル関係者)

 野村さんには、行きつけの寿司店もあった。市谷の『鮨太鼓』である。