《“がんばろう福島”と言われてもむなしく、涙が出た》
震災後、リスナーから届いたそんなFAXをきっかけに“現場”に通い詰めるようになった。権力者にも鋭く斬り込む姿勢で県民から厚い信頼を寄せられる男が、幾度も大学生を原発取材に同行させ、見据える福島の未来とは―。
「さあ、ラジオ福島のふるさとレポーターのみなさんに、地域の話題をお聞きいたしましょう。今週は南相馬市の上野敬幸さんにお話を伺ってきました」
毎週土曜日、張りのある男性アナウンサーの声が、福島県民に朝を告げる。午前7時から午後1時までの6時間、“ニューシニアマガジン”と銘打つ番組『ラヂオ長屋』のパーソナリティー、大和田新(64)だ。
心のひだを知りたい、伝えたい
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、被害状況を涙ながらに伝えた。停電の続く部屋で、避難先の車中で、人々は震えながら耳を傾けた。電池で動くラジオが頼りだった。
震災から9年を迎えるにあたり、大和田は津波で両親と2人の幼い子どもを失った上野敬幸さん(47)を真っ先に取材した。震災の半年後に生まれた次女は、小学2年生になっていた。
「震災から10年目ということで私たちメディアは節目みたいなことを言うのですが、今回はどういう気持ちで迎えられそうですか」
やや斜に構えた問いかけから、被災者の率直な意見を阿吽の呼吸で引きだした。
「被災地はいまもこんなに大変ですとか、こんなに復興しましたと報道されますが、それを見た第三者はなにを受け取るのかと考えると、とても疑問です。それより、いまある命をどう守るかを考える機会にしてほしいと思います」
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取材の模様をさっそく、大和田は自身のフェイスブックに載せた。上野さんの着るTシャツの左胸に「心」とあるのに対し、大和田のTシャツには「下心」とある。上野さんが贈ったのだという。そんなところに、時間をかけて深めてきた関係がうかがえる。
「大和田さんはおもしろい人ですよ。大好き。普段会っているときはふざけてばかりいるけど、いざ仕事になると謙虚でまじめで、真摯なんです」
2人の出会いは最悪だった。取材に来た大和田は「なにやってんだ! お前なんかにしゃべることねえ」と上野さんに怒鳴られ、けんもほろろに追い返されたのだ。
南相馬は津波で壊滅的な被害を受け、見渡すかぎりの大地に上野さんの家が1軒だけ、かろうじて残っていた。象徴的な被災地の姿を写真に収め、住人に話を聞こうと、多くのメディアが集まった。土足で亡くなった娘の部屋に上がり込む記者もいた。そのたびに「ここでなにが起きたか知っているのか!」と、上野さんはたしなめた。
原発に近いことから警察も自衛隊も来ないなか、上野さんは行方不明になった家族を地元の消防団仲間と探していた。近所に住む知人を遺体で見つけると、メディアはすかさずカメラを向ける。上野さんは込み上げる怒りを押し殺し、捜索を続けた。
原発事故に関心が集まるあまり、津波の大きな被害が福島でもあったことが見過ごされていた。疑問をもった大和田は、めげずに上野さんのもとへ通い詰めた。ただ挨拶をして帰ることを来る日も来る日も続けたのだという。
「語りたくても、すぐには語れないドラマというのが必ずある。上野さんの怒り、悲しみ、苦しみ、不安、家族を亡くした人の心のひだを知りたい、伝えたいと思っていました」