夏が近づいたある日、インタビューに応じると上野さんのほうから声をかけてきた。そして、ポツリ、ポツリと大和田に語り始めた。
「死んだ娘をがれきの中から見つけて抱きしめて。そのまま遺体安置所に連れて行きました。顔は泥だらけ。水がないからね、顔を洗ってあげられないんです。でもね、涙で娘の顔を洗ったよ……」
震災後、学校の宿題がそのまま机に置かれた娘の部屋に上野さんは入れずにいた。
「あの日抱きしめた遺体と、生きた痕跡が残る部屋。そのギャップに耐えられなかったんです。そこに土足で入る記者が許せなかった……」
そんな胸の内を泣きながら明かしてくれた上野さんの姿が、このとき大和田のなかに深く刻まれた。
本当に怖いのは無関心
番組で相方を務める山地美紗子さんは、新人のときから「とにかく現場だ」と大和田に教えられたという。
「“現場に行かなければわからない”“現場に行かないかぎり伝えられない”と口すっぱく言われました。子どもを亡くしたお父さんにも、大和田さんはストレートな言葉で気持ちを聞きます。みなさん“自分のせいだ”と苦渋するのでひやひやしますが、決まってあとから、“あのとき聞いてもらえてよかった”と言われるんです」
震災当時、そうした大和田の報道が部分的に切り取られてネットに広まり、全国から批判が集まった。ラジオ局が「大和田クレームマニュアル」を用意したほどだ。しかし、本人に気にする様子はなかった。
「批判は、応援と受け止めました。私は見ていませんが、ネットには想像を超えるほどたくさんの批判があふれていたようです。でも、本当に怖いのは無関心ですからね」
大和田がいまも被災地の現場にこだわるのは、マスコミが継続的な取材をしないのも無関心のうちと考えるからだ。
震災があった当時、大和田はラジオ福島の編成局長を務めていた。「未曾有」とまで国が形容した地震と津波による被害に原発事故が重なり、なにがどうなっているのか、報道の責任者であるにもかかわらず、さっぱりわからなかった。原子力や放射能についての基本的な知識もなく、勉強不足を痛感した。
「福島は北海道、岩手県に次いで広く、手分けして取材するにも限界があります。そこで被害状況から、どこでなにを売っているといった生活にまつわることまで、各地から寄せられる情報を裏もとらずに伝えました。リスナーとの信頼関係があったからこそできたことです」
地方のラジオ局は地域のほのぼのとした話題が主で、社会的な問題を深く掘り下げることはまずない。それが被災地となって一転、15日間にわたり、CMを入れずに状況を伝え続けた。広告収入が経営基盤となる民間放送としては異例のことだった。
大和田は「いいか。語るなよ」と、新人アナウンサーに注意をうながした。
「私たちは科学者ではないので自分の意見や見解は言えず、“がんばろう福島!”とひたすら呼びかけるしかありませんでした。代わりに専門的な知識をもつ医者や大学の先生に出演していただきました」
専門家とひと口にいっても、立場によって言っていることが異なり、ときに矛盾した。聞き慣れない専門用語や数値の単位が理解を妨げた。一貫性を欠いた説明が混乱を招き、国やマスコミは情報を正しく伝えていないとの不信感が全国的に高まっていた。