「現場を見てから物を言え」
大和田のもとに、視聴者から長文のFAXが届いたのは、震災から3週間が過ぎた4月2日のこと。その日付を大和田は忘れられずにいる。差出人は福島市内の人で、混乱の最中、何度も沿岸部に行って仕事をしていた。そこで見た被害状況を、丹念に伝えてきたのだ。
《瓦礫のなかから子どもを探し回る人がいれば、陸に打ち上げられた漁船を呆然と眺める人がいる。そんななかで「がんばろう福島」と言われてもむなしく、涙が出た》
自分にあてられたFAXを読んだ大和田は、「現場を見てから物を言え」と言われている気がしてならなかった。実際、リスナーから集まる情報で放送を続けていたものの、現地取材はほとんどできていない。先の見えない状況で誰もが不安を抱えるなか、「がんばろう」「力を合わせよう」と感情に訴えるのが精いっぱいだと決め込んでいた。
「番組への批判というより、まだラジオ福島が見限られていないのだと思いました。しかし、沿岸部の現状がどうなっているのかわからず、部下を取材に行かせるわけにはいきません。俺が行くしかないよなと思い至りました。それで毎週、沿岸部の被災地に通うようになったのです」
大和田の「現場主義」はこのときから始まった。
被災した街はどこも、風景を一変させていた。海岸沿いの住宅地では家が軒並み流されて土台だけ残り、見渡す限り瓦礫の山。遺体を収容する場面に何度も遭遇した。
「まだこういう状況なのか」と実感した大和田は、スタジオではなく、現場からレポートするようになる。4月末には行方不明者を捜索する警察官に同行し、原発から5キロのところまで近づき実況した。
「びっくりしたことがあるんです。当時、福島市内でも25マイクロシーベルトありましたが、原発のすぐ近くなのに3マイクロシーベルトしかない。国は20キロ圏内、30キロ圏内と同心円で避難指示を出していたので、どういうことかと疑いました。そして、国や東電の発表する数値には心がないのだと感じました」
第一原発のある大熊町に隣接する川内村は全村避難を余儀なくされていた。震災から2か月たった5月はじめ、ようやく一時帰宅が許可された現場に大和田は足を運んだ。
真っ白い防護服に身を包み、線量計を首から下げた人々に許された滞在時間はわずか2時間。思い思いのものを入れて持ち帰ってきた村民に、村長の遠藤雄幸さん(65)は「ご苦労さん、ご苦労さん」と声をかけていた。
「袋は透明なので、中身が嫌でも見えました。身の回りのものや位牌、写真アルバムなどが多かったです。子どものおもちゃと勉強道具で、袋がいっぱいになった夫婦もいました。空っぽの人もいて、どうしたのかと村長が聞いていました。2度と戻れないからビデオに収めていたという人や、愛犬が死んだので、庭に埋めたという人がいました」
こんな不条理なことはないと涙をこぼす遠藤さんに、大和田はすかさず近づき、単刀直入に尋ねた。爆発した原発がこれからどうなるのか見当もつかないなか、「川内には戻るんですか」と聞いたのである。リーダーの覚悟を確かめたかったからだ。
「もちろんだよ。戻れない人のためにも、戻らない人のためにもふるさとは必要なんだ」
原発は安全だと信じ込み、避難訓練などしたことがない。その意味では自分も加害の側にいると遠藤さんは考えていた。大学の研究チームに村の状況を詳しく調査してもらい、自らチェルノブイリを視察し、原発事故の影響とはなんなのかを把握していった。そして、震災から1年足らずで「帰村宣言」をする。
「行政は町や村を元の姿に立て直すことが復興だと考えがちですが、遠藤村長はちがいました。新しい川内村をつくり、たとえ離れて暮らしていても心の中ではともにあり、帰るとなったらいつでも温かく迎える。そんなふるさとをつくろうとしていました」