ローズが覆面を脱いだきっかけの曲とは
「そのときに歌ったのが『薔薇の素顔』という曲でした」
覆面歌手から素顔の“ローズ”へと変わり、さらに人気を集めた。紅白初出場は、それから4年後の'56年のこと。ただ、ローズの代表曲『東京のバスガール』は歌えなかったそうで……、その理由は。
「バス会社の宣伝になっちゃうというのよ。それでダメだったんです。当時のNHKはとても厳格だったの」
'57年の紅白出場時にはこんなトラブルもあった。
「『日劇』から紅白が行われる『東京宝塚劇場』に向かったんだけれど、紅白用の衣装を車のトランクから出すのを忘れたまま、運転手さんがお茶を飲みにどっか行ってしまったの。私は『バスガール』の衣装のままで……」
刻一刻と出番が迫るなか、運転手が戻ってきた。すぐさま着替えて『どうせひろった恋だもの』を歌ったところ、
「焦っていたこともあって、いつもとは違う強い表現での歌い方で、逆に審査員からの評価が高かったみたい(笑)」
映画やドラマの主題歌だけでなく、銀幕デビューに舞台までこなしていた。休みなく働き、1か月で4曲レコーディングすることも。
レコーディングの現場ではこんなこともあったという。
「私とデュエットをしていた方が何度も失敗をするんです。バンドのひとりにバイオリニストだった黒柳徹子さんのお父さんがいたのですが、その様子を見て“それでもプロか!”と怒鳴ったんです。すると、すんなり決まったことも。当時の現場にはすごく緊張感がありました」
当時、仲がよかったのは、
「同じコロムビアの歌手で神楽坂はん子ちゃんとは、一緒に岡山へ旅行に行ったこともありました。彼女は花柳界の出なので気配りが行き届いていて、泊まる旅館にご祝儀を出したり、すごいなぁって」
ほかに、こんな思い出も。
「浅丘ルリ子ちゃんが小さいときに一緒の列車で地方局開局の仕事に行ってね。行き先の宿でも同じ部屋だったの。かわいい、しっかりしたお嬢ちゃんでした」
活動10年目となる'61年に突然の引退。何があったのか?
「私の心が弱かったんですよ。でも、強い母親がいたから、10年も駆け続けられた」
当時は“体調を崩した”、“一身上の都合”などと発表したが、実際は違っていた。
「大阪でコンサートをやれば、移動だけで1日かかってまた仕事。ほかにも映画に舞台に、とにかく忙しかった。そのためか、今でいう“うつ病”のような状態になっていたんだと思います」