かつて世間の注目を集めた有名人に、「あの騒動の最中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、そして当時、言えなかった本音とは……。第6回は'74年に華々しく歌手デビューし、多数の新人賞を受賞するなど、一気にスターダムを駆け上がった仁支川峰子(61)。しかし私生活では度重なる不幸に見舞われ、“死”を意識したこともあった。さまざまな困難を乗り越えて見えてきた大切なものとは──。
19歳で両親のために家を建てる
「初めての記憶は、5歳のときに立って歩いたら家族みんなが手を叩いて喜んでくれたこと。貧しい家庭に加えて、祖母がギャンブルに熱中するあまり、母親が置いていったミルクを与えず、大人が食べる塩せんべいだけを与えていたため、栄養失調で死にかけたこともあったとか。その影響で5歳まで立って歩くことができなかったんです」
’74年に『あなたにあげる』で歌手デビューした仁支川峰子。この曲はいきなり55万枚以上の売り上げを記録し、『日本レコード大賞』新人賞など、数多くの賞を受賞した。華々しいデビューを飾ったが、芸能界入りした原点はというと「家族を楽にさせたい」という思いだった。
「貧しい家庭だったので、子ども心に両親を幸せにしたいとずっと思っていましたね。それで賞品目当てで『のど自慢大会』に出るようになり、文房具なんかをもらって、家計を助けていました」
’73年に『第3回全日本歌謡コンテスト』で優勝したのをきっかけにデビューを果たすが、4年間は無休でガムシャラに頑張ったという。
「19歳で地元・福岡の大宰府に両親のために家を建ててあげたんです。そのために寝る間も惜しんで働いていたから、10代は恋愛している余裕がなかったですね。睡眠も営業の移動の夜行列車で寝るぐらい。当時は1日16本とか仕事があったので」
不倫騒動で、全マスコミと1対1の対面取材
両親へ家を建ててあげるという目標を達成し、緊張の糸が切れたのか、身体に異変が現れ始める。19歳のときのどを酷使した影響で一時的に声が出なくなってしまう。また21歳のときには卵巣のう腫を患い、続けて水ぼうそうも発症してしまった。
「発症後もステージで歌い続けていたら、医者に“あと2時間遅れていたら死んでいたかもしれない”と激怒されました。23歳のときには不倫を報じられ……これは自分にも責任があるんですけど(笑)。自宅前にマスコミが張りつき、電話も鳴りっぱなし。それが3か月ほど続き、その間は自宅にも戻れませんでした」
過熱する不倫報道を終わらせるべく、仁支川が取った行動は1社1人という条件で不倫に関する対面取材をすべて受けること。
「マスコミって束になると集団心理なのか強気になるでしょ? でも、ひとりひとりと向き合ってきちんと話せば、私の気持ちが伝わると思ったの。実際、意外ときわどいことは聞かれず、自然と沈静化していきましたね」