震災、恩師と父の死で絶望
'95年1月17日の5時46分。兵庫県の明石海峡を震源としてマグニチュード7・3の大地震が発生する。
「なんか地響きがするな……」
大阪平野区の自宅兼アトリエで眠っていた川西さんは揺れの直前に異変を感じ取った。窓の外を眺めていると、部屋中がグラグラと激しく揺れ始め、身構えた。物が落ちたり、壊れたりという直接的な被害はなかったが、過去に感じたことのない感覚に襲われ、放心状態に陥った。
「アパートの一部が壊れて住めなくなった彫刻家の友人が僕の家に1週間ほど来たんですが、『絵や彫刻では困っている人を直接的には助けられない。芸術やってて何の意味があるのかな……』と2人して虚無感に襲われました。泉先生は『自分のすべてをぶつけるのが表現だ』と言っていましたけど、本当にそんなことをしていていいのだろうかと迷いやジレンマを感じました。自分が生きている意味もわからなくなってきて、精神的にかなり落ち込みましたね」
西淀川高校や都島工業高校の美術の非常勤講師の仕事はかろうじて続けたが、メンタル的にも、経済的にも限界が近づいていた。専攻科時代の同期で現在は絵画作家の粟国久直さん(54)は、当時の芸術界の窮状をこう明かす。
「関西の経済界が大打撃を受けた影響で、活動が立ち行かなくなった芸術家や作家はたくさんいました。収入がなくなっただけでなく、勤め先を解雇されたり、住む家を失う人もいて、全く将来が見えなかった。彼みたいなきまじめな人ほど精神的に追い詰められたのかなと。僕ら友人には何の泣き言も口にしませんでしたけど、本当につらい時期を過ごしていたと思います」
悪いことは重なるもので、恩師・泉先生が5月に急逝。がんを患っていた父の容体も悪化した。「余命1年」と宣告を受け、大阪と松阪を行き来しながら看病に励んだが、翌'96年2月には永遠の別れが現実に。とうとう川西さんは絵が描けなくなった。
「この年は無気力状態で、フリーターみたいな生活をするのが精いっぱいでした……」
そんなとき、救いの手を差しのべたのが、のちに妻となる真寿実さんだった。京都府内で開かれた個展に友人と足を運んだのが縁で知り合ったという。
「夫の絵を初めて見たとき、『ああ、ナイーブな絵を描く人なんだな』と感じました。1・5m四方の大きなキャンバスに、塗り重ねた白や紫などかすかな色で染色体のイメージが描かれていて、全体に淡い色使いでしたね。しゃべったときは人当たりがよくて、作家仲間やギャラリーの人にさりげなく気配りしているのも印象的でした。『こういう絵を描く人はどんな生活してるんかな』と興味が湧きました」