その年'70年は、大阪万博が開催され、大学紛争もまだ盛んなときだった。
「滔々と『大学解体を叫ぶだけでは意味がない。東京の大学に行くよりは佐渡で自分たちが理想とするような職人大学を創ったらどうだ』とアジテーションするんですね」
英哲さんはまったく関心を持てなかったが、翌年4月に主宰者から、機関紙を発行するから、ゴールデンウイークに島に来て、レイアウトを手伝ってくれないかと連絡があった。
「デザインの仕事ならやってみたいし、様子見も兼ねて行ってみたんです。そしたら、それは引っかけだった……」
「お前もせっかく来たんだから、ここで合宿しろ」と言われ、毎朝のランニングに主宰者の長い説教、さらに佐渡を訪れた琴や歌舞伎囃子の先生から稽古を受けることに。
収容所のような過酷な毎日
当時のメンバーは、理屈は言えても「さあ、稽古」となると何もできない素人の大学中退者が中心。ドラムの経験がある英哲さんだけが「筋がいい」と褒められた。結局、レイアウトの仕事はさせてもらえず「夏休みにまた来てくれ」と言われる。
このとき、主宰者は英哲さんの素質に気がついていたのだろう。夏に再訪すると、太鼓の打ち手が足りないと、強く勧誘されたのだ。
「他人とは違う経験のほうがあんたの芸術に役に立つ。7年間だけで集団は解散する予定だし、美大で学ぶよりも世界を見たほうが、絵を描くときの視野も広がるはずだ」
こうして英哲さんは、再び美術の道に戻れることを信じて、その年の秋から集団に参加することになったのだ。
それは過酷な集団生活だった。起床は毎朝4時、すぐさま10キロを走り、午後も野山や海岸を走る長距離訓練を課せられた。テレビ・ラジオ、新聞はすべて禁じられ、情報のない、社会と隔てられた禁欲生活。給料も自由行動もない半自給自足生活で、食事も当番制の自炊。冷暖房もなく、男は黙っていろ、ということで、団員同士で深い会話もできなかった。
「とにかく走らされました。朝、昼、晩で50kmを超えることもあった。僕は運動経験がなかったから、記録がのびないことを理由に、特別メニューで倒れるまで特訓させられました。夏場の暑い日でも水は飲めなかったから、田んぼの水を飲んだこともあった」
そして芸事の訓練。太鼓、横笛、長唄三味線、琴、尺八、日本舞踊、バレエ、合唱などの先生が指導に来た。
'75年、グループ初の海外公演では、アメリカ・ボストンマラソンに参加し、完走したゴール直後に、すごい気迫で太鼓演奏をするというパフォーマンスで世界を驚かせた。続いて、社交界のセレブが集まるパリ・カルダン劇場でも公演し絶賛を浴びる。
「観客の中に、日本から来ていた北大路欣也さんや岸惠子さん、デヴィ夫人などがいらしたんですね。外国で初めてわれわれを見た日本人がいちばん興奮したようです。外国人が日本人に向かって総立ちになって拍手するなんて光景は相当衝撃的だったんですね」
日本のメディアにも大きく取り上げられるようになり、'76年には小澤征爾さん指揮のボストン・シンフォニーと共演する機会に恵まれ以来、毎年欧米での公演が実現する。
ブロードウェイ公演など海外を含めて1年で180本ものツアー公演を行いながらも、集団生活は変わらず過酷なまま。舞台が終われば宿まで走って戻り、寝袋で雑魚寝をするような生活だった。主宰者が舞台を褒めることはなく、むしろメインを務める英哲さんへの要求は厳しく、見せしめのように怒られ、しごかれた。