予定の7年が過ぎ、職人大学を創って解散、という時期を迎えても主宰者からは何の説明もなく、過酷な舞台と収容所のような生活は続く。

 唯一、外部との接触が許されたのが、日本舞踊の花柳照奈師匠の指導の時間だった。

「英哲は何万人に1人の才能だから。ちゃんとした伝統芸能の稽古をさせたほうがいい」と師匠は主宰者に強く進言したようだった。だが主宰者にしてみれば、そう言われれば余計に英哲さんを外には出したくなかったのだろう。師匠の指導にしても、マラソン記録を上げれば、という条件つきのしぶしぶの許可だった。

「先生の稽古場からの帰り、渋谷の西武デパートの屋上で100円玉1個で自販機のスプライトを飲むのが唯一の楽しみだった。屋上は人がいないから、自販機がいちばん冷えていて美味しいんです(笑)」

大成功の海外公演の陰で……

 ボストン、パリのカルダン劇場公演の数年後、ロサンゼルスの劇場で1週間以上の長期公演をしたことがあった。

「そこでも爆発的な人気になりました。最初は日系人が半分ほどでしたが、日に日に客層が変わり、白人、黒人、ヒスパニック系と人種が混合し、日系人は1割か2割くらいになっていったんです」

 この光景に驚いたのが、現地の日系人だった。

「戦時中、日系人は強制収容され、つらい目に遭っていた。戦後もそのつらい経験が尾を引いていて、日系とわかると差別されるから、子どもには日本語を教えずに、できるだけアメリカ人らしく育てていたんです。

 ところが、そこにわれわれが行って、褌一本の鉢巻き姿で太鼓を打った。それを一般のアメリカ人が総立ちで拍手する─、これは日系の人たちにとって衝撃の光景だったようです。自分たちのルーツの文化をアメリカ人が絶賛するとは……。もうみなさん泣いて喜んでました

 その光景に勇気づけられたと感じたのは、日系人だけではなかった。

昔の話をする際は、今でもつらそうな顔になる 撮影/齋藤周造
昔の話をする際は、今でもつらそうな顔になる 撮影/齋藤周造
【写真】アメリカの公演でスタンディング・オベーションを受ける林英哲さん

「ヒスパニックや黒人からも勇気が出る、うらやましいと言われました。少数文化でもちゃんとやればアメリカで評価される。日本人がやれるのなら自分たちにもできるはず、と」

 太鼓奏者を目指していたわけではなかった英哲さんにとって、ボストン・シンフォニーとの共演などで欧米で現代音楽として高く評価されたこと、日系人やマイノリティーに勇気を与えられたことは、大きな支えになったという。

 公演は国内外で好評を得ていたが、しかし集団は大きく軋み始めていた。'78年、主宰者は記録映画作りに熱中し始め、そのために借金が膨れ上がっていったのだ。

「このままでは破綻してしまう─」

 主宰者への疑問や反論など許されなかった団員たちだったが、さすがに耐えかねて、主宰者へ連名で直訴状を送った。

「そしたら、主宰者の逆鱗に触れて『言うことが聞けないなら、辞めてくれ!』となったんです」

 だが、集団名義で引き受けた仕事を投げ出すわけにはいかない。

 結局、団員は主宰者と袂を分かった後も2年近く公演を続け、負債を返済していった。