熱血監督『デビル塩澤』と呼ばれて
1993年、久美さんが26歳のときに設立し、猪高小学校の選手たちを主力に据えたクラブチームの活躍は、目覚ましいのひと言だった。
チーム結成わずか1年目で全国大会で優勝。優勝までのスピードは、全国的な注目を集めるほどであった。
飛躍の理由は、優秀な選手陣や井上先生仕込みの3年先を見越してのチーム作り、陰で『デビル塩澤』と恐れられた猛練習にある。そして、久美さんならではのみんなをまとめ上げ、引っ張っていくキャプテンシーあふれる指導も見落とせない要因だった。
「子どもたちにもよく言っていたんですが、人には役割があると。雑用をする人も必要だし、人のかげになって働くことになる人もいるだろうと。人を適材適所に置くとともに、それぞれの人間が自分の役割をきちんとやっていこうと伝えてきました。
苦労している人もいるんだということを常々言い、そういう人をほめたり感謝を伝えたりすることで、みんなまとまっていけたんです」
チームによっては、レギュラーを大切にするあまり、荷物持ちやボール拾いはレギュラー外の子どもばかりというチームは少なくない。
「うちのチームは、全国大会とか大切な本試合以外はレギュラーが荷物を持たなくちゃいけないと決めていて、バスとか電車に乗るときもレギュラーじゃない子から座らせる。“彼らはあなたたちレギュラーのために(いろいろな雑用を)やっているんだ”と、わかってもらい、感謝を示してもらいたかったから」
いまも忘れられない経験がある。
「全国大会で力の差があって絶対に勝てるチームだと、控えのCチームを出すんです。こうしたときレギュラーが知らん顔しているチームも多いんですけれど、うちのチームでは、レギュラーが率先しての大応援になるんです。いちばんうれしかったのは全国大会で優勝したあと、レギュラー陣が、“優勝よりも、Cチームもまぜ、全員が得点できたことがうれしかった”と言ってくれたこと。それを聞いたときには“やっていてよかった……!”と思いましたね」
どんなチーム、どんな企業にも、日が当たる人もいればその陰で働かなければならない人がいる。全員が優秀でも、サポートする人なしには優勝することも、発展することもできない。勝利も発展も、それぞれが自分の役割を果たして初めて手にできるものなのだ。
将来、自分が担うことになる役割への貯金が、ここでも着実に久美さんのなかに蓄積されていく。
さて、破竹の勢いの昭和ミニバスケットボールクラブに、あるとき思いがけない逆風が吹いた。
クラブチームに4校制が導入され、全国大会に出場できるのは4校以内の小学校の生徒から結成されたチームのみとされたのだ。
強豪チームの常として、同クラブの選手たちの所属校はさまざまだった。今後も全国大会出場を目指すなら、誰かをやめさせ、4つの学校出身に絞るしかない。犠牲になるのはおそらく、久美さんが常々気にかけてきた、レギュラー以外の子どもたち。
「そんなことはできない。それで子どもや親御さんたちにも相談のうえ、全国大会は諦め、東海大会優勝を目指すことにしたんです」
クラブ創立5年目。久美さん30歳のときだったという。そんなさなか、久美さんに交際話が持ち上がった。
「居酒屋の社長さんなんだけど、面白い人がいるのよ─」
知り合いがそんな話を持ちかけたのだ。“面白い人”は、名を山本重雄という。
久美さんが18歳のとき、ホウレン草のサラダを提供していた居酒屋の主人は、“幻の手羽先”が大人気の『世界の山ちゃん』10店舗(当時)を経営する、気鋭の経営者に成長していた。