おニャン子クラブから一番手でソロデビューした河合その子
おニャン子クラブから一番手でソロデビューした河合その子
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『ザ・ベストテン』出演の3日後、9月1日に『涙の茉莉花LOVE』でソロデビューした河合その子以降、おニャン子クラブからはソロ名義で17人(B組の山崎真由美を含む)、ユニット名義で3組がデビュー。『夕ニャン』が終了した'87年8月末までの2年間で、71作ものシングル(グループ卒業後の作品も含む)がリリースされた。平均すると月に3作。驚異的なハイペースだが、それは「出せば売れた」からである。

 その71作のうちオリコンでTOP10入りしたシングルは65作、1位獲得は43作。ブームがピークを迎えた'86年は、年間52週のうち36週でおニャン子クラブ関連の作品が1位を占めた。アルバム(LP、カセット、CD)も含めた'86年の年間総売り上げ金額はグループ単体で23.7億円、ソロやユニットも含めると実に101.5億円。この年、1位に輝いた中森明菜が48.9億円だから、その旋風がいかにすさまじかったかが分かる。

 しかし、ブームは必ず収束する。過去に一世を風靡したGS(グループサウンズ)も、ピンク・レディーも、勢いがあったのは約2年間。おニャン子クラブも例外ではなく、『夕ニャン』が視聴率の低下とともに'87年8月で終了すると、同年9月20日の解散コンサートをもって、2年半の活動に終止符を打つ(ちなみに『夕ニャン』最終日にソロデビューしたのが工藤静香であった)。

 では、彼女たちが後世に与えた影響とは何だったのか。筆者は4点あると考える。

おニャン子に「私でもなれそう」

 第1は、ヒット曲の寿命を短くし、「初動がすべて」という風潮を作り上げたこと。おニャン子クラブはユニットやソロ作品も含めると、多いときは毎週シングルをリリースし、そのほとんどが初登場1位を記録した。帯番組の『夕ニャン』では新曲発売のたびに猛プッシュし、1位獲得を喧伝(けんでん)したが、すぐに次の新曲が発表されることもあって、2週目以降はチャートで急落することも珍しくなかった。

 かつては1位になるようなヒット曲は数週間にわたって上位にランキングされ、その間に広く浸透していったものだが、おニャン子以降は他のヒット曲も短命化が加速。その結果「1位をとったのに、ファン以外は知らない」曲が増えていく。それは複合チャート(CDセールス以外に配信やユーチューブの再生回数など、複数の指標を用いたヒットチャート)が定着する'10年代後半まで続いた現象であった。

 第2は、アイドルを発掘・育成する既成のシステムを破壊し、ファンとの距離を一気に縮めたこと。それまでのアイドル歌手は、第1号とされる南沙織以来、選ばれた人だけがなれる特別な存在で、誰でも応募ができたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系/'71~'83年)でさえ、プロによる厳しい審査を勝ち抜かなくてはならなかった。そして運よく合格したとしても、早くて半年、長い場合は1年以上かけてレッスンに励み、ようやくデビューというのが常道だったのである。

 だが、おニャン子クラブの成功でそのシステムは過去のものとなってしまった。実際には芸能活動を始めている応募者もいたとはいえ、表向きは昨日まで素人だった普通の少女たちが『夕ニャン』のゆるいオーディションに合格した途端、おニャン子に加入。特に秀でたスキルがなくても、すぐにその一員として活躍を始めたのだから、同世代の女性視聴者が「私でもなれそう」と思う一方、男性視聴者がクラスメイト的な親近感を持つのは当然と言えた。