東大新聞部で女性初の編集長
お茶の水女子大学附属高校を経て、'52年に東京大学文学部に入学した。戦後、GHQの命令により女性も参政権を獲得。それまで差別されていた高等教育への進学も可能になった。東大は'46年に初めて女子19人の入学を認めたが、樋口さんが入った年も女子は全体の3%で15人ほど。
樋口さんは「何か伝えることがしたい」と新聞部に入った。当時は大学内で自由に弁当を広げられる施設もなく、雨が降ったら行き場がない。新しい憲法で保障された最低限度の生活の場所すらないと感じて、学生新聞に『学園に生活はあるか』という長文の記事を書いた。
「今でも私が言いそうなことでしょう(笑)。男の子はバンカラだから、そういう生活上のことは気がつかないの。上級生の編集長にほめられたけど、“お恵ちゃん、やっぱり女だよな”と言われてイヤだったのが半分。やっぱり男ばかりの社会は偏ると思ったのが半分。女子寮や食堂、女性のトイレを増やしてほしいとか、ちょくちょく書かせてもらいましたよ」
その後、女性初の編集長に就任。3年からは学内の教育施設である新聞研究所にも合格、卒業後はジャーナリストを目指した。だが、そもそも女性が受けられる新聞社は少なく、意気消沈。唯一、受かった時事通信社に就職した。
最初は雑用をこなしながら、配属先の決定を待つ。男性の新入社員は次々決まっていくのに、樋口さんだけお呼びがかからない。
「もう、毎朝会社に行く足取りが重くてねー。最後に私ひとり残ったときには石神井川に身を投げたいと思ったくらいつらかったですね」
その後、欠員が出た活版通信部に配属された。金融と財政を担当する部署で、樋口さんは助手として日銀総裁交替の記者会見にも先輩と同行した。だが、夢見た記者生活とは、ほど遠い日々……。
「人間の出来がお粗末なので簡単に絶望し、自棄のヤンパチになって、お見合い結婚しちゃいました。ダメ女ですね(笑)。大学でも社会学を専攻すればよかったと後悔したし、私の人生なんて悔いだらけですよ」
入社から1年あまりで結婚退職した。5歳年上の夫は東大工学部出身のエンジニア。工場のある山口県の社宅に住み専業主婦になった。
妊娠すると、重いつわりで苦しんだ。子どものころ患った腎臓炎が再発する危険性もあり、半年間、入院して点滴で命をつなぎ、26歳で娘を出産した。
まもなく夫の東京への転勤が決まる。父は樋口さんが大学卒業前に亡くなっており、母がひとりで住んでいた実家に、一家で移り住んだ。
東京に戻ったのを機に、樋口さんは働くことにした。きっかけは新婚時代に夫にかけられた言葉だった。
「僕たちは国民の税金で大学を出たんですよ。あなたもせっかく大学に行ったのだから、税金を払ってくれた人のために、何か役立つことができるよう勉強したらどうですか?」
当時の国立大学は授業料が非常に安く、多くが税金でまかなわれていた。
「普通の男と結婚したと思っていたのに、えらい男と結婚しちゃったと思ってねー(笑)。あれは、生涯を決めた大きな言葉でしたね」