女性も高齢者も見捨てない社会へ
'03年3月、17年間勤めた東京家政大学を70歳で定年退職し、名誉教授になった。その翌月、樋口さんはなんと東京都知事選挙に出馬する。
「唐突なんですけどね。女性グループから推されて、ここで断ったら女の世界で生きていかれないかもと(笑)。ちょうど大学が定年になったので」
背景には女性グループの危機感があった。当時、樋口さんたちの悲願である男女共同参画条例を作ろうとする動きが東京都をはじめ全国の自治体で活発化していた。日本でも女子差別撤廃条約を'85年に批准。その後の国際的な流れに沿った動きだったが、条例に反対し妨害しようとする勢力が都庁内にもあった。そこで女性グループは現職の石原慎太郎知事の女性蔑視発言などに抗議し、樋口さんを擁立したのだ。
選挙の結果、石原氏が308万票で当選。樋口さんは81万票で2位だった。大差で敗れたとはいえ、それだけ多くの人が支持したということは、樋口さんが長年活動してきたことが高く評価された賜物だろう。
評論家としての樋口さんの強みはどこにあるのか。社会情報大学院大学客員教授で季刊『オピニオン・プラス』編集長の渡邉嘉子さん(74)はこう語る。
「私は簡単に人を尊敬しないタイプの人間ですが、何度も取材を重ねた樋口さんのことはとても尊敬しています。というのも彼女はフィールドワークをしっかりしているんですね。全国を歩いて農家の主婦たちとか、草の根の女性たちの実態を観察して、話をいろいろ聞く。そのうえで自分の意見をまとめて世の中に発信して、政治に届けようとする。普通の女性たちの悲しみや苦しみをちゃんと吸い上げないと、代弁はできないと思われているんです。そこまでやる女性評論家って、ほとんど見当たらなくないですか?」
確かに、自分の足で歩き回るぶん、人一倍、忙しそうだが、むしろ楽しんで難題に取り組んでいる感じがする。
その点、樋口さん自身はどう思っているのだろうか。
「いろいろな人に出会うたびに、幸運って言ったらおかしいんですけど、課題を与えていただいてありがたいと思っています。これがすんだら次はこれ、と。だから、おかげさまで死ぬまで退屈しそうにございません。アハハハ」
だが、樋口さんたちの努力があっても、諸外国と比べると、日本の女性の地位は驚くほど低いままだ。いまだに女性の議員や管理職は少なく、派遣やパートなど非正規雇用でギリギリの生活をしている女性はたくさんいる。
めげたりイヤになったりしたことはないのかと聞くと、「私だって腹が立ったりムシャクシャすることはありますよ」とあっさり言う。
そんなとき樋口さんを励まし、力をくれたのは先輩の言葉だ。評論家の秋山ちえ子さんは生前、こう言ってなぐさめてくれたという。
「20年、30年単位で見るから悔しいのよ。50年単位で見てごらんなさい。やっぱり女性の地位は変わっていますよ。その人が本当に変えようと思っている限り、進んでいきますよ」
現在、樋口さんが懸念しているのは、女性の貧困層の増加だ。
高齢化が急速に進む日本では、年齢が上がるほど女性の比率が高くなり、80歳以上では男女の比率は4対6。百歳を越えると9割が女性だ。十分な遺族年金をもらえる人は別として、低賃金で働いてきた女性は年金も少ない。
「BBと私が呼ぶ“貧乏ばあさん”が増えていくと、嫌でも貧困社会になり、何十年後かに日本はつぶれかねません。それを防ぐためには、女性が平等に働ける社会にすること。私は女性だから女性の利害のためにも発言していますが、結果として日本が生き残る道は、女性の地位向上しかないと思っています」
コロナ禍が続き、新たな心配も出てきた。家に閉じこもらざるをえなくなり、認知症が進んでしまった高齢者がたくさんいる。まさに、ヨタヘロの危機だ。
樋口さんはコロナの感染対策をしたうえで、どんどん外に出ようと呼びかける。
「少年よ大志を抱け、ヨタヘロよ大地を歩け。ヨタヨタ歩けば人に出会う。人と話せば元気になります」
わが身をもって示す樋口さんの言葉は、多くの人の心に届くに違いない。
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。